2015年ジンバブエツアー

正岡茂明

 

【まえがき】

 2015年12月17日~29日のジンバブエツアーについて、筆者の全く勝手な考えや印象に基づいて報告します。また、順序に全く意味はありません。思いつくままに書いただけで、前にあるほど意味が大きいということはありません。そんなこともあったのかと笑って頂ければ幸いです。

 

【良かったこと・有難かったこと】

●伊藤益朗氏と大前健治氏のジンバブエ訪問が実現した:伊藤さんは12年ぶりのジンバブエ訪問。関西学院大学硬式野球部のヘッドコーチとして、ほぼ毎日練習や試合に帯同していることを考えれば2週間近くの休暇を取るにはこの時期しかなかった。大前さんは初めての訪問。2年前の訪問時に持参した野球用具の大半を提供していただいた『ヤングリーグ・姫路アイアンズ』のヘッドコーチである。大阪ガスの職員として年末に長期休暇を取るという重大決断の下に実現したツアーだった。二人はバッティング投手としても直接ボールを投げ、ノックを打ち、ノックを受け(伊藤さんはジンバブエの選手に見本を示すためにノックを受け、ダイビングキャッチを試みた)、青年海外協力隊員(以下JOCV)の田澤佑太郎氏と共に日本の野球を直接ジンバブエの選手に伝えた。後に我々がハラレJICA支所でお願いしたシニアボランティア派遣(ジンバブエ野球協会(以下ZBA)会長モーリス・バンダの希望でもある)の先駆けになるのではと感じた。私個人としては、練習が終わって、モーリス邸でビールを飲みながらの野球談議は本当に楽しいひと時だった。特にキャンプ最終日26日、玄関前のタイル張りポーチで夕日を見ながらの話は格別だった。

 

●田澤さんと一緒にジンバブエナショナルチーム(以下ZNT)の指導ができた:ジンバブエへの野球隊員派遣中断後、久方ぶりに2014年11月田澤さんが着任した。ただ、ZBAではなくハラレ野球協会(以下HBA)が招聘したということで活動場所がハラレ市内に限定されている。今回のドリームカップ(各地区代表による全国大会)とその後のZNT 6日間キャンプへの参加もZBAからの正式要請が不可欠だった。モーリスが我々の旅程に合わせドリームカップとZNTキャンプの日程と場所を変更したため、JICAへの正式要請が遅くなり、特に元の開催予定地であったハラレのHBAからは不満が出た。しかし、18日午後ハミルトン高校のグランドに到着すると、6地区の代表が熱戦を繰り広げており、ハラレチームと一緒に田澤さんも来ていて、その後のZNTキャンプでもずっとコーチ陣のリーダーだった。直接田澤さんと話すのは初めてだったが、田澤さんが報徳学園高校から立命館大学と野球を続けたので、お互いが知っている指導者・選手も多く、直ぐに距離感が縮まり、話が盛り上がった。ジンバブエの野球に関して貴重な情報が得られた。そして、田澤さんはJICA事務所に「後任の隊員はZBA所属にするように」と要請していると聞き、感激した。

 

●JICA本部に表敬訪問できた:ジンバブエを出国する28日朝一番に、首都ハラレのJICAジンバブエ支所で、田澤さん、モーリス、そして我々4人は、所長の吉新(ヨシアラ)さん、コーディネーターの柳沢さんとお会いして、一時間半も話ができた。吉新所長は12月に着任されたばかりで、ジンバブエ野球会(以下Zykai)のこれまでの活動に大変興味を持たれた様子で色々と質問された。また柳沢さんは自身もジンバブエでの隊員経験があり、野球隊員が多くいた時代も知っていて、野球を通して環境教育(しつけ)をしたいと話された。空港へ向かう時間が迫っているのも忘れるぐらい話し込んでしまった

 

●モーリスの下での新生ZBAの動きを直接見ることができた:これまでジンバブエ野球はマンディショナ・ムタサ(以下マンディ)一人によって支えられている感があり、2013年末に彼が失踪した後、ジンバブエの野球はどうなるのだろうと心配していた。翌2014年、6地区のコーチ達に推薦される形でモーリスが暫定ZBA会長(彼は好んでこの単語を使用する)となり、昨年4月~5月にかけて岡山県の堤尚彦氏宅を中心にモーリスが日本を訪問した。彼がZBA会長に就任し、我々も何とか応援したい気持ちで今回の訪問を決めた。技術レベルではまだまだ改良の余地大だが、ジンバブエに野球を愛する若者がいる(残っていた。12年前オールアフリカゲームに伊藤さんがコーチとして参加したとき若干17歳の控え捕手だった愛称ルーキーがこの大会にも参加しZNTの一員に選ばれた)こと、様々困難な条件はあるが全国大会が行われていること、その試合内容からZNTメンバーが選ばれ、6日間の強化練習(キャンプ)が行われたことをこの目で確認した。Zykaiはこれまでジンバブエ側からの要請を受け、こういう行事を援助するため送金していたが、実際に観戦・参加するのは初めてではなかったか。前回の訪問では野球用具を届けることが最大の目的で、ブラワヨ周辺の高校生の強化練習(3日間)を見学しただけだった。今回のキャンプには南アフリカで野球指導を続けているアメリコ・ジュマ、会場となったハミルトン高校の教員でもあるワシントン・ニカらのコーチが田澤さんと共に指導に当たった。キャンプ最終26日には練習後、伊藤さん、大前さん、田澤さん、正岡2名とモーリス、アメリコ、ワシントンの8名で、コーチ会議を開き忌憚のない意見交換が行われた。これら一連の出来事はある意味奇跡だと思う。歴史はここに始まると思った。

 

●持参した野球道具がすべて関税もかからず(没収もされず)ZBAに手渡せた:2年前も結果的にはそうなったが、ハラレ空港の税関で2時間も足止めされた。その反省から荷造りを工夫し、前もってモーリスに今回の入国地ブラワヨ空港での根回しを頼んでいた。おかげでわずか15分の交渉で税関を通過、すべての持参道具を無事届けることができ、直ぐに試合や練習で使ってもらえた。

 

●天候に恵まれ、我々一行も健康を維持し、食生活や住環境も満足できるものだった:12月のジンバブエは真夏で雨季と聞いていた。天気を心配していたが雨で中断したことは一度だけ、わずか10分のみ。日本の夏のようなじめじめ感は全くなく、2年前の冬と比べて蠅が少し多いくらいで、虫や爬虫類も気になることはなかった。12月18日~26日までブラワヨのモーリス邸にホームステイした。モーリスの家は高級住宅地の一角にあり、奥さんと小学校に入ったばかりの娘、1歳半の息子の4人暮らし。もう一家族とルームシェア―している。ここで2部屋を我々のために提供してくれた。クーラーも扇風機もないが寝苦しくはなく、洗濯機はないが手洗い用の洗い場(コンクリート製シンクの一部分が洗濯板状態になっている)が使えた。シャワーも我々が泊まるということで電熱タンクを稼働させてくれた。そのため電気代がかさみ? 一晩電気がストップしロウソクの明かりで夕食を食べた。ブラワヨで外食したのは、現地在住のJOCV3人と田澤さんとの交流会をした一晩のみ。毎日朝食後にサンドイッチを作り練習会場であるハミルトン高校へ持参、昼食とした。26日のキャンプ最終日、日陰に置いていたサンドイッチの袋が極小の蟻の大群に襲われ、手で払ったがどうしようもなく、私は少し蟻が残っている状態で食べた。他の日本人が食べなかった分は選手たちが喜んで食べていた。小さい蟻は良い蛋白源とか。27日のハラレでは、中華料理店で夕食をした後、モーリスの友人宅にホームステイした。送迎、旅行などはすべてモーリス運転のマツダのデミオを利用。ブラワヨ到着時の出迎えとハラレへの移動はワシントンの車も利用したが、これもモーリスから譲られたマツダ・デミオだった。南アに工場があるマツダ車をたくさん見かけた。

 

●モーリスとコーチ陣以外にも多くのジンバブエ野球関係者に出会えた:我家に泊まったことがあるジョン・マジロゥとはドリームカップで会うことができ、日本の独立リーグの選手だったシェパード・シバンダも2日間キャンプに参加した。ハラレへ移動した27日には、2004年ZNTが関学に招待された時の団長だったピーター・ムルコ氏、我家に泊まった3人のうちの一人スチュワート・マピカ、HBA会長のウィンモア(メールでのやり取りはあったが、噂に聞いていた通り大風呂敷の人物という印象)、そして2年前のジンバブエ訪問時にマンディーと行動を共にしていたティザに再会できた。この日は朝3時半にモーリス邸をワシントン号と共に出発、午前中にこれらの人々と会い、荒れ果てたドリームパークも見学(雨季のためか、2年前に比べて緑鮮やかで雑草の高さは低かった)。ここからワシントンの親に会うためにモザンビークとの国境に近い村まで移動、とハードスケジュールであったが、こちらが願った人との面会や行くべき場所への案内など、すべてモーリスが計画し、準備し、実行した。彼の強い意思と行動力には頭が下る思いである。その点に関して、JICAでの評価も非常に高いと聞いた。

 

●野球漬けのスケジュールであったが、野球以外のジンバブエの事情を知る機会にも恵まれた:(1) 野球がオフとなった20日、ブラワヨに近いマトポ国立公園を訪れた。山から今にも転げ落ちそうな奇岩(バランシング・ロックと呼ばれてジンバブエには多い)が連なり、古代の狩猟民族が残した見事な岩絵(アルタミラやラスコーのような)も見学した。これをマツダ・デミオで回った。モーリスの運転技術をもってしても引き返さなければならないところが何か所かあった。まさにパリダカ・ラリーのような悪路の連続だった。(2) 毎日練習後にスーパーへ寄り、その日のビールや夕食、翌日のサンドイッチ用材料などを買った。ジンバブエに対して我々が持っている『山のような札束(ハイパーインフレーションのため)と品不足のため店頭に行列』というイメージとは異なり、品物は豊富であった。我々が立ち寄った場所が比較的裕福な層の多い地域だったのかもしれない。(3) 27日にワシントンの両親が住むハラレ南東にあるマロンデラへ連れていってもらった。モザンビークとの国境に近い開拓村という感じであった。ここに着くまでがマトポ公園と同じラリー状態の悪路で、人の住む限界という感じであるが、人々は明るく元気に暮らしていた。ここでご飯(タイ米)とチキンの昼食を頂いた。さすがにコメは栽培できないが、他の材料は自給で、特に庭で放し飼いにしているお母さんこだわりのアフリカ種の鶏の料理は非常に美味しかった。マロンデラからの帰り、閉店間際のスーパーで土産物の紅茶やルイボス茶を購入した。合計130箱。棚の商品だけで足らず店員に倉庫から持って来てもらった。我々も爆買い!?

 

【残念だったこと・できなかったこと】

●南アフリカに住むラブジョイに会えなかった:行きも帰りも南アフリカのヨハネスブルグ・タンボ空港で乗継をした。伊藤家にホームステイしたことのあるラブジョイがヨハネスブルグからブラワヨまで同行することになっていたが、娘さんが急に熱を出し、残念ながら来られなくなった。それでは帰りに会おうとなったが、乗継の旅行者と現地の人が会うということは容易でなかった。最大の原因はWi-Fiが使えないこと。有料、しかも3時間$250と聞き諦めた。ハラレからの飛行機が遅れ、待ち合わせ時間から1時間ほど経っており、ラブジョイが指定したレストランへ行ったものの彼は見つからず、店員に聞いてもよく分からず、仕方なく近くの店で土産物を見ていた。その時、ラブジョイからレストランにかかってきた電話を店員が取り次いでくれて、伊藤さんとも電話ではあるが話が出来た。何事も諦めずに最後まで努力することが大切と感じた。

 

●JICA事務所で、Zykaiの話ばかりして、田澤さんの頑張りをアピールできなかった:吉新所長から色々質問があり、伊藤さんや家内が説明、そして大前さん、私へと順番が回ってきた。そこで田澤さんの今回の働きに関して、それまで中断していたジンバブエ野球とJOCVの関係を再生させる重要な役割をまさに彼が果たし「A⁺」の評価に値するということを言うべきだった。飛行場へ向かう車の中で思いついたが『時すでに遅し』まだまだ修行が足りないと反省した。

 

●ジョンやシェパードが生活面の事情で、野球に打ち込めない:どうしようもない事だが、ジンバブエの現状として先ず生活を成り立たせないと好きな野球も続けられないということである。我々は日本という国に居て、いろいろあるけれど野球も続けながら、家族を持ち、生活できている。ジョンはドリームカップ終了後、「一旦家の用事でハラレに帰るがまたキャンプに戻ってくる」と言い残し、結局戻って来なかった。シェパードも2日間だけの参加だった。彼らが何とか野球から離れてしまわないように祈るのみである。連絡が取れないマンディー(ハラレに戻っているとの情報もあるが)も無事で、いつか再会できればと願う。

 

●最後の最後27日に、伊藤さんと大前さんはベッドで並んで寝ることに:モーリス邸では、伊藤さんはベッド、大前さんは床にマットレスを敷いてという形で休んでいたが、ハラレ泊の夜、モーリスの友人宅(高級マンション)で二人はクイーンサイズベッドを使用することになった。できれば避けたかったことである。

【あとがき】 ジンバブエに野球が残っていたこと、マンディー不在でも運営が維持されていることは奇跡ではないかと思いました。また今回無事にツアーができたことは、ひとえにモーリスの頑張りによると思います。ただ、モーリスもまだこれから大学教員としてのキャリアを積まなければならず、いつまで会長としてフル回転できるのかという心配もあります。また今はどこで暮らしているのかもわからないマンディーがこれまでジンバブエの野球に果たした役割は非常に大きく、彼に何があったにせよ、その役割には賞賛を与えるべきだとも思います。この13日間に及ぶジンバブエツアーの詳細を映像と共にお知りになりたい方は、万障お繰り合わせの上、2月20日の『冬の集い』にお集まり頂き、大前さんの講演を聴いて頂ければと存じます。最後にこのツアーの企画(現地との日程調整、航空券の手配)、通訳、通関での交渉、和食の料理、その他生活面での指導などにおいて多大な役割を果たした妻の康子に感謝して。