20年ぶりの再会

おかやま山陽高校野球部監督(元ジンバブエ野球隊員) 

堤尚彦

 

 今回、来日していたモーリス・バンダ氏(38歳)ジンバブエ野球協会長との再会について、書いてみます。

 1995年12月 ブラワヨに着いた私は途方に暮れていました。野球を普及するといっても何から手をつければよいのか…。英語もまともに話せない上に、右も左もわからない街。とりあえず、関係団体のトップにJICA調整員と挨拶に行って、あとは終わり。放り出されたように、町外れのノースリーハイスクールの寮で生活をスタート。場所は大統領のブラワヨ邸の隣、バットを持っていると衛兵に職務質問される毎日、部屋に鍵はかからない、お湯

は出ない、手紙は勝手に開けられる、街へは歩いて1時間。場所柄、タクシーなどはない、などなど、楽しいアフリカンライフが始まりました。  

 記憶が定かではありませんが、数日後、街中の学校に派遣されていた音楽隊員のいる小学校で、モーリス・バンダ(当時17歳)君と出会いました。出会う経緯も、よく覚えてはいませんが、マンディーにブラワヨならモーリスかオージヤスという少年が野球のことは多少わかると教えてもらって、携帯もないあの時代に誰がどのように連絡をつけてくれたのか…。

 出会った、第一印象はチャラけた小僧という感じ。彼は日本語がわからない、私は英語がわからない。とりあえず、次に会う時間と場所を何とか決めて別れたと思います。他にも、何人かと会いましたが、おそらく1円にもならない活動は、面倒くさいんだと思います。一緒に活動してくれる人はいない。時間や約束も守ってくれない人ばかり。結局、モーリスだけが一緒に活動を手伝ってくれました。数日後、村井さんが数回指導した5校に連れて行ってもらったりして、巡回指導開始。そのプログラムの決め方にスポーツ省のシバンダ氏が文句を言い出し、私の拙い英語で書いたメッセージが逆鱗に触れる

ことになりました。謝罪したほうがよいというモーリスとハンバーガーショップで大喧嘩。

 当時24歳の血気盛んな私は、彼の言うことに従わず巡回指導を再開すると、スポーツ省からマタベレランドでの活動禁止、ならびに追放処分を受ける始末。JICA職員、スポーツ大臣級、野球協会まで巻き込んでの大問題に発展。結局、私が深謝し、問題は解決。ほぼ2か月間は何もできなかった有様でした。

 そこから、友情が深まったのか!? 馬車馬のように二人三脚で活動しました。記憶が正しければ小学校30校、中高校20校、大学2校、クラブチーム2つに普及・指導、野球協会の整備、指導マニュアル、審判マニュアル、簡単なルールブック、現地産野球道具の製造、年代別地域選抜チームの編成と練習など、1日27時間ぐらい働いたような気がします。

 朝から晩まで、ずっと生活を共にしました。彼のおかげで半年後には突然英語が話せるようになり、意思の疎通も図れるようになりました。1996年5月6日 彼の誕生日にケープtoカイロという、ブラワヨでは老舗のレストランに行きました。7時前には店に入り、美味しいビーフコードンブルーという、肉の層にチーズが挟まっている絶品メニューを注文。8時になり、店は白人客で大混雑、料理は出てこず、なんども催促しましたが、「料理中だけど、混雑しているから…もうちょっと待ってて」と言われました。

 後から来た客のテーブルには料理が次々と運ばれてきます。9時になっても同じ、客のほとんどが帰り、店が閑散としてきたころ、モーリスは泣いていました。「僕のせいだ。帰ろうよ。ここは黒人の来る店じゃないんだよ…。」確かに、いた客は殆どが白人。待たされていて、ビールしか飲んでおらず酔っていた私は、「出てくるまで、絶対に帰らない!」と厨房に文句を言いにいった記憶があります。

 普段は2人で過密黒人居住区(ハイデンシティーと呼ばれる)に、毎日のように指導に行くのですが、初めての地区では、酔っ払いにトウモロコシの芯や石を投げられました。モーリスは日本人にゴマ擦って物を貰っていると陰口をたたかれたりもしました。とにかく、最初の1年は嫌なことが多かったです。反骨心から、U15やU12の全国大会で、ブラワヨ勢が優勝した時は、嬉しかったです。ナショナルチームの選考で、いつもハラレの選手を多く入れてこようとするので、勝ったのはブラワヨやろと2人で文句ばかり言っていました。その後、あまりの普及のスピードに隊員が増員されました。そんな激動の2年間を終える頃、モーリスに大学に行くように話をしました。大学に行って、大きな会社に就職するか、スポーツ省の役人になって野球をサポートしてくれといいました。教育に関わるお金なら、多少は援助するからとも言いました。数年に一度、見積もりと一緒に金銭のリクエストがきました。

 何度か送金し、何度かは断りました。だんだん、連絡がなくなりました。ガーナにも行っていた私は、ガーナ人にも何度か送金したことがあります。後日ガーナ人には、騙されていたことがわかりました。妻に話すと「ポール(ガーナ人)腹立つなぁ~。ひょっとするとモーリスも騙してお金貰って、他のことに使っているかもやなぁ」と言われたときに、「騙されててもエエねん。それで生活できてれば。モーリスの2年間奪ったんやから…」と話をし、その後も夫婦であげるつもりで送金しました。しかし、その後、私の誕生日とクリスマスに決まって短い電話があるだけで、どっぷり日本の生活に浸かっている私は、年々ジンバブエやモーリスへの思いが薄れていっていました。

 別れてから20年。今年の3月に、モーリスから日本に行きたいと電話があり、気軽にいつもの社交辞令やろと思ってたので「おいで~!」というと、ビザのフォーマットがメールで送られました。

 電話して「お金は、どうすんの?」と聞いても、自分で払うから大丈夫というだけ。とりあえず、予定表など正岡さんから届き、ホンマに来るんかいなと思っていると、とうとう来ました。

 4月25日 県大会の初日の夜、新倉敷駅のフォームにオッサンになったモーリスがいました。「セグル!(おっさん)」とお互いに言い合ってのハグ。翌日は、大事な試合だから観戦してくれと家に帰りました。

 朝、集合している選手のところに突然、黒人が参上。集中しすぎていた選手は、何で?何?誰? ひょっとしたら緊張もほぐれたのかもしれません。

 試合は、岡山の大横綱 関西。美しいマスカットスタジアムでシードをかけた両軍の試合は、中盤まで山陽5対1でリードしました。ジリジリと追いついてくる関西。7回から選手の身体中を魔のシビレが襲いかかりました。もはや相手は関西ではなく自分自身。

 そんな中でもスクイズで加点。しかし…最後は延長サヨナラ負け。

 そんな試合を見た、モーリスは高校野球の熱気に興奮して、スタンドにいる控えの選手や保護者と一緒にメガホンを叩いていました。保護者も、たくさん来て応援しているのが凄いねと言っていました。

 20年前、彼が17歳の時に、突然現れた肌の色が違う、文化も違う、英語が話せないクソ生意気な25歳の日本人が私でした。寝る時間以外のほとんどを一緒に過ごしました。お互いに数々の人種差別にあい、幾度も修羅場を潜り抜けながら…。帰国の日に、もう2度と会えないと思っていました。そんな話を17歳前後の生徒にしました。今、お前らの目の前に、そんな外国人来たら2年間一緒にやるか? 全員、無理です…。と言っていました。

 結局、彼は南アフリカの大学を含め3つの大学を卒業したようです。そして今、大学の先生、しかもジンバブエ野球協会の会長です。住んでいる場所も、昔のハイデンシティーではなく、ヒルサイドという高級住宅街でした。しっかり生活ができるようになった姿を見せたいということで来たそうです。推測ですが、年収の半分ぐらいを使って来たのではないかと思います。もう数年すれば教授になれるとも言っていました。

 滞在中は様々なことに挑戦。なかなか観光などには連れて行けなくて申し訳ないと言うと、堤夫婦に会いに来ただけだから気にしないで。と言ってくれました。納豆を食べたり、回転寿司では電車に乗ってやってくる寿司に大喜び。障子の張り替えもやっていました。大工の専門学校にも行っていたので、ドアを修理してくれました。何をするにも、即答で 挑戦する!せっかく日本に来たんだから!と言います。心を開き、何でも挑戦する。非常に重要なことです。本校の選手も、馴れてきたのか片言の英語とゼスチャーで、話しかけていました。よい経験でした!朝の通学路指導や授業も体験。多くの生徒が、Good Morning!と言って話しかけるようになっていました。

 5月6日は、モーリスの誕生日でした。あのレストランでの悔しい思いをして20年。今回は保護者の方々や選手からケーキやプレゼントを頂き、大喜び! なかでも判子は、特に喜んでいました。家に帰ると、我が家でも、モーリスがいない間に、子供達が飾り付け、手作りプレゼントを用意していました。異国の地で、こんなにして下さり

感謝ですとコメントしていました。プレゼントで頂いた日本酒が気に入ったのか、饒舌だったモーリスでした。翌日は、広島の平和記念公園、翌々日から東京、名古屋、大阪と旅に出ました。

 滞在中、東京・名古屋・大阪・福岡などに住むジンバブエの野球をサポートしている方々に会いに行きました。また千葉ロッテマリーンズやソフトバンクホークスで働いている伊東・松本 元ブラワヨ野球隊員にも会いに行き、さらに大阪大学で講演して、山陽新聞の取材を受けるなど忙しい日々を過ごしました。小学生からプロ野球まで、全てのカテゴリーの野球を視察した彼は、帰国し

たら直ぐに4ヶ年計画を立てて、ナショナルチームを再編するそうです。そして、2020年の東京オリンピックで野球が復活すれば、是非予選を勝ち抜いて東京で再会したいと言っていました。その間、1年に1回か2年に1回でも、日本で強化合宿ができれば素晴らしいとも言っていました。伊藤さんのいる関西学院大学や山陽高校が協力できればと思います。最後の夜には、ジンバブエの食べ物サザandニャマを、我々に作ってくれました。20年前に、毎日のように食べていた懐かしい味でした。しかし、別れは淋しい…。新幹線に乗る姿を見ると涙が止まりませんでした。

 もう会えないと思っていた人間と、1ヶ月も生活するなんて、まるで幻のような気がします。また会えるかなぁ〜…。オリンピックに野球を復活させて、オリンピックで再会!合宿でも何でも協力します!校長にも、予選前の2~3か月はジンバブエに行きますよと伝えています。

 会員の皆様も一緒に夢見ましょう! 

 1人で見る夢は、ただの夢 みんなで見る夢は実現への夢!

現在のモリス氏と堤氏

20年前のふたり

クッキング

障子張替

サザ&ニャマ

さようなら