30年分の土(野球への想い)

山下雅之(リーブス球団ジェネラルマネージャー)

 

1978年7月30日(日)、一つの草野球チームが結成され、その初戦を行った。私はその時23歳、社会人二年目、そのチームのレフトとしてスターティングメンバーに名を連ねていた。それから30年近くたった今日、そのチームが活動を続けていようとは、誰もが思いもしなかったことであり、私自身もこのチームの30年後など考えもしなかった。しかし、あの日以来、30年間グランドの土や原っぱの土を踏み拉いてきた。今日は、機会を頂き、30年間踏み拉いてきた土の中に埋められた思い出の数々を拾ってみたいと思います。

その日、尼崎西高校のグランドに、祭りの賑やかさを思わせる一団があった。新たに結成された野球チームが、その初戦を迎えようとしていた。真夏の炎天下、誰もが長島や王のかっこよさを追い求めて、試合前の練習に励んでいた。チーム名は「若葉会リーブス」。

結成初戦ともあり、選手の数より、老若男女を含めて応援団の数が多かった。華々しかった。試合は4対8と大敗したものの、野球を楽しんだ満足感があった。土の中に埋められた思い出を記すはずであるが、この時の思い出は、帰途、みんなで阪神百貨店のビアガーデンに立ち寄ったこと。私は美酒を飲んでいました。レフトの守備機会二回をうまくこなしていたからである。

今こうして振り返れば、この試合こそが、1,000試合への第一歩であったわけである。まさしく、「1,000里の道も一歩から」の草野球版である。今年2006年の10月か11月には、創設以来1,000試合を達成予定である。

華々しく立ち上がった新球団であったが、第2戦目を行うまでには、1年以上の歳月が流れてしまう。1979年1試合、1980年2試合、1981年2試合。この間、勝ったのは、1980年の2試合目。球団創設以来の初勝利も、はっきりと覚えている。ただし、覚えているのは、帰途に樟葉の居酒屋で大騒ぎしたことです。初戦のビアガーデン以上の美酒でした。

その後、球団監督のアフターファイブの活躍もあって、徐々に野球をやれるメンバーの補強が進んだ。それまでは、野球の素人集団であったが、1982年には野球経験者が多数在籍するようになり、第一期の黄金期を思わせた。そして、1983年には試合数が14と、初めて二桁の試合数まで伸びました。この年、ユニフォームが新調され、今日に至っています。現在のクリーム色のユニフォームです。20年以上変わることのなかった由緒あるユニフォームですが、ほとんど廃番状態ですので、最近では新規の注文をする際に旧型番と新型番の照合に苦労しています。

チーム力の向上に自信を得て、1984年には沖縄へ遠征しました。ここには、二つの思い出があります。一つは機内放送をされたこと、二つ目は試合場(沖縄水産高校のグランド)へ向かうバスが交差点で止まった際に、同じように横に止まったバスに、日ハムの選手が乗っていたこと。互いにユニフォームを着た者どうしが、バスの窓ガラス越しに目が合いました。機内放送は、「大阪からお越しの野球チームの方へ、球場が変わりました」との連絡。当初、奥武山球場の予定でしたが、ある会社のグランドに変わってしまいました。野球そのものの思いでは?この時期は、野球の名のもとにみんなが集まることが楽しかったのだと思います。事実、そうでした。

1987年、創部10年目にして、年間の試合数が20を越えました。球団名も、この年から、それまでの「若葉会」の冠を外して、「リーブス」球団としました。「若葉会」とは、この球団の母体となった数社の旅行会社の連中の集まりで、年2回領事館の職員と親睦旅行を行う会でした。その連中が転勤や退部等でいなくなり、メンバー規定の旅行会社および関連職種に従事する者を維持出来なくなり、その友人・知人まで輪を広げたため、「若葉会」とはほとんど無縁となったためである。ところが、この方針変更が、産業革命にも匹敵するほどの変革をこの球団にもたらすことになりました。

1988年、当時の監督の紹介で、「野球の権化」のような選手が入団してきました。

伊藤益朗。(当時は若かったはず。でも、現在の外見と同じだったように記憶しています。)球団の記録・歴史を紐解けば、「球団の野球革命の年」と記されています。

まさしく革命でした。現在は市立尼崎高校のグランドになっていますが、当時の園田軟式野球場での彼のデビューは、そのショートの守備が今でも両目に焼きついています。相手打者が放った打球(ゴロ)、セカンドベースの上を抜けてセンター前へ転がろうとしていました。私は、センター前ヒットと思ってスコアーブックに目を落としかけていました。と、その時、視界の端に何かが映ったのです。ショートがその打球を追いかけていて、最後は飛びついてその打球を捕獲したのです。今風に表現すれば、「うっそー」でした。残念ながら一塁には間に合いませんでしたが、嘆声とともに、私の目からは鱗が落ちるどころではなく、両目が飛び出る思いでした。そのプレイを目の当たりにして、何か得体のしれない「すごい」もの(者というより物)の存在を感じとりました。

その後、90年代に入って、チームは順調に年間の試合数を伸ばし、第二期黄金期に入り、年間最高63試合まで伸びて、年間100試合へとさらに夢を膨らませていた矢先に、阪神大震災が起きました。それでも野球をするつもりで尼崎市内の球場を確保していました。ところが、3月の開幕戦が近づいたころ、記念体育館から連絡があり、橘球場、小田南球場に仮設住宅の建設がきまったので、球場が利用できなくなるとのことでした。残念。でも、仕方がないとすぐに諦めはつきました。そして、今後の活動をどうしようかと途方にくれていたとき、市内のライバルチームが、万博のスポーツ広場へ活動を継続していることを知り、リーブス球団も活動の場所を求めて万博まで出向くことに。でも、(球場使用料が)高い、(場所が)遠い、(駐車料金が)高いの“3T”。しかも、球場はたんなる原っぱで外野フェンスはなく、ねこ車でベースとライン引きを運搬しなければならず、4面の球場のなかで、場所によっては非常に遠く、貴重な試合時間に食い込む。

それでも野球ができた。喜びはあった。95年震災の年から99年は、茨の期間であった。年間の試合数も20前後と落ち込んだが、活動は細々ながらも続けられた。人数不足は、さらなる悩みの種となっていた。そんな折、今でも忘れない出来事があった。某チームと対戦のとき、直前に2人が来れなくなり、相手チームから2人の助っ人を貸してもらった。その試合は我々が勝った。後日、次回はきちんと人数をそろえるつもりで、同チームに対戦を申し入れた。一旦は了解をもらったが、しばらくして連絡があり、「人数も揃わないようなチームとの対戦は辞退したい」と告げられる。悲しさ、悔しさ、腹立たしさが綯い交ぜとなった。確かに、対戦を誘っておいて人数が揃わないと言うのは非礼すぎる。自分でもよくわかっているし、申し訳ない気持ちでプレーをしていた。でも、何もそこまで言わなくても。あれから10年経っても、尾を引いている。 そのような茨の道を歩んでいた最中、95年だったか96年だったか、万博での試合を終えて帰る車中、同乗していた伊藤益朗がとんでもないことを口にした。「アフリカ」に野球場を作ると。それを聞いた私のなかでは、落ち込んだ気持ちでいる時期に何を馬鹿なことをという気持ちと、希望の曙光を見たように気持ちが戦っていました。そして、車中での話がだいぶ進んだころ、その球場の杮落としは、リーブスがやりたいですねと、すでに心は彼の地の新球場へと飛んでいました。「野球」という非常に粘り気の強い共通項で、さらに自分の世界が広がるのもいいだろうと。後の「ジンバブエ野球会」へと繋がる車中の密談でした。

その会は現在、ジンバブエの窓口となってくれていた村井さんが出国されたことで、大勢の方々の厚志を頂いて完成にいたったハラレドリームパームをいかに維持していくかに苦心している。折角の夢の球場が元の原っぱになってしまっては、野球でつながりを求めた人たちの心の拠り所を失ってしまう。もし、球場がたんなる原っぱに戻ってしまったらどうなるのか。ハラレの子供たちはそこでサッカーをして遊ぶのだろうか。野球と違ってサッカーなら原っぱでもできる。

やっぱり野球はお金がかかりすぎるのか。最近、野球とサッカーの根本的な違いを見つけたような気がしている。極端に言えば、野球は必ずルールどおりにプレーをしなければ勝利することができない。例えば、三塁手がゴロを捕って、「俺は一塁のやつが嫌いだから二塁に送球するんや」といった勝手は許されない。きちんと一塁に送球しないとアウトカウントは増やせないし、「お前、野球知らんのか」と罵声を浴びせられる。対して、サッカーは、「俺はあいつが嫌いだから、あいつには絶対にパスしない」としても、勝利することはできる。他のプレーヤーにパスするか、あるいは自分でドリブルして切り込んで行くことも可能である。裏を返せば、サッカーの方が、規制が少なく、自分が思うようにプレーできる。野球は、一部の機転を利かすプレーを除き、ルールが君臨する。よって、初めて接する人にとっては、野球はそれだけ判りにくいスポーツであるのかもしれません。我々日本人でも、サッカーとクリケットを見せられて、二者択一と言われれば、サッカーをとるのではないでしょうか。

震災翌年の96年11月、チーム恒例のシーズンを締める紅白戦。尼崎記念球場を確保していました。兵庫県下の高校野球の大会にも使用されるりっぱな球場です。そこに子供のころの野球を思い出させる経験が待ち受けていました。締めの紅白戦なのに、十分な人数が集まらず、その球場で我々は「三角ベース」で紅白戦を行ったのです。球場事務所にお願いをしたら、ソフトボール用のベースを貸してくれました。悲しい思いをしながら試合を始めましたが、楽しかった気もします。

1997年、球団創設20年目の年を迎えました。震災で下火になっていた計画ですが、メンバーの強い希望もあって、その年の7月にオーストラリアへ遠征しました。ゴールドコーストで、地元サーファーズオールスターズのBチーム(年齢は18、19歳)と対戦をしました。「軟式」ボールでやってくれました。2戦2敗でしたが、素晴らしい交流でした。地元のスポーツ紙GOLD COAST BULLETIN が取材にきました。記事と写真が載りました。掲載された写真は相手チームのピッチャーでしたが、テニスのマルチナヒンギスとアガシが一緒に写った写真が載ったページと見開きのページに載せて頂きました。ここでも、悩みの種は海外までついてきました。海外まで遠征したのに、何と地元在住の日本人に助っ人にきてもらいました。

1999年、ついに、茨の活動に終止符を打つ日がきました。その年の9月、小田南球場(命名権は確保していませんが、「リーブス球場」と呼んでいます)が再開しました。5年間見なかった球場は、外野の芝生は植え付けたばかりでしたが、内野にはきれいに黒土が張り替えられ、公園の周りの木々も鬱蒼となるほどに成長していました。5年間の苦労が報われた気がしました。活動を休止しなくてよかった。好きな野球が素晴らしい球場でまたやれる。喜涙。

1999年は、二つの野球と出会いました。一つは、高校野球。息子が入部したことで、高校野球の存在が近くなった。甲子園を目指す高校球児の兵庫県予選を初めて見に行きました。後がないトーナメントの試合、負ければ夏が終わる切なさが心を振るわせる。チームの大小・強弱にかかわらず、団員の多少にかかわらず真剣に応援する姿。すべてが新鮮でした。それ以来、高校野球は私のなかで特別な存在となり、毎年夏の予選が待ち遠しい。夏が近づくと、私の携帯電話の着信は、「栄冠は君に輝く」を奏でる。そして、高校野球に対する思い入れは、吹奏楽部に所属していた娘とともに、さらに深くなっています。

もうひとつは障害者野球。全国制覇を続けている「神戸コスモス」のコーチであった伊藤さんの助力を得て、「神戸コスモス」の五島列島(私のふるさと)遠征が実現し、リーブス球団も同行しました。その縁で、五島列島にも障害者の軟式野球チーム「上五島つばき」が結成され、普及枠により、翌年の神戸グリーンスタジアム(現在のスカイマークスタジアム)での全国大会にも出場が決まりました。出場に先立って、障害者野球の練習方法を教えるもらうために、伊藤さんに再度五島列島まで私と同行してもらうことになりました。本人の意向や諸所の関係者の同意も取り付けていよいよ出発のその日、新大阪で大きな問題が待ち受けていました。その時期に起きていた一連の新幹線トンネル内の壁や天井の崩落。出発のその日は、山口県下でのトンネル内の崩落が発生し、新幹線不通。新大阪で一時立ち往生。次策は飛行機。航空会社へ電話する。長崎行きや伊丹発は満席。仕方ない、福岡へ行こう。博多港を深夜に出発する夜行フェリーが翌朝6時に島へ着く。関空発の福岡行きが3席空いている。予約する。でも、伊藤さん、尚平君、伊藤さんの奥様、私の4人。1席足りない。取りあえず、大阪駅まで引き返して関空へ向かう。残念でしたが、奥様には諦めて頂くことになりました。昼過ぎの関空発で福岡へ到着。夜中まで時間が有り余る。真夜中、フェリーの寝台に潜り込み熟睡。やっとの思い出で島へ辿り着いた。海から上がるきれいな朝日の出迎えを受ける。「上五島つばき」監督の尾上(私の義弟)の家で朝食を済ませ、すぐに練習グランドへ。メンバーが待ち受けていた。すぐに練習開始。みんな頑固だ。こりゃ大変だ。それでも、2時間ほどの練習を積み、練習の仕方を会得したようであった。私の無人の実家を開けて、準備してもらった昼食を頂く。「宴会」と言った方が言葉は適切かもしれません。チーム一同、飲み会が始まっていました。私たち3人は、あたふたと食事を済ませて、島から長崎空港までセスナ機で飛び、長崎から大阪へと戻ってきました。島での滞在、わずかに7時間。宿泊なし。短い滞在でしたが、なんとなく充実感はありました。

障害者野球に接することで、野球で社会貢献ができることに思い至りました。野球が好きだ、野球をしたい、野球を楽しみにして一週間を過ごす、週末を楽しみにする。野球をして健康を維持するのではなく、野球をしたいから健康でいようと努力する。人間、寝込んでしまったり、呆けてしまっては、いろんな人に迷惑をかけてしまいます。寝込む日、呆ける日はいつかはくるのであろうが、最小限にしたい。週末、元気で野球をしていれば、迷惑もかけないし、医療費もかからない。これもりっぱな社会福祉であろう。この時期掲げた球団標語は、『寝込むな人生、ぼけるな人生、野球を糧に』でした。毎月の試合日程を記したA4版の球団ニュースのタイトルの下に書かれてありました。

ミレニアム記念の海外遠征も行いました。グアムの、巨人軍がキャンプを張っていたパセオ球場で、地元グアム大学の野球チームと「軟式」ボールで対戦しました。海外の人はおおおらかなんでしょうか。いくら海外から来たとはいえ、得たいの知れないチームが得たいの知れないボールを持参してきて、関学の大学野球チームに対戦をお願いするような非礼をおこなっているようなものである。しかも、相も変わらず、地元の助っ人を引き連れて。相手チームは、ロッテでプレーするアグバヤニのような体型をした連中がごろごろ。大敗でした。憧れのパセオ球場は、粘土質の赤土。前夜から明け方にかけて降った雨で滑りやすい。芝は深い。芝と土の境は段差が大きい。小田南球場の方がずっといいな。前夜来の雨の影響で湿気が凄まじい。気温も高い。息苦しい。補給しても補給しても水分を欲する。初めて経験する所謂「アウエー」の戦いでした。 この年を境に、年間の試合数が50を越えるようになった。毎週土曜日、一日一試合がやがてダブルヘッダーをこなすようになり、時にはトリプルにもなり、やがて慣れが高じて一日4試合。さすがに、思考力がなくなる。究極の一日5試合の夢はまだ実現されていない。そのような積み重ねから2003年には年間90試合に達した。チームの活動が3月から11月の9ヶ月間であるので、年間100試合達成の目標は至難であるが、挑戦する意欲は持ち続けたい。

2002年は、球団創設25年の記念の年。社会全体の経済状態も悪い時期であったので、あまりお金のかからない行事を企画。現役とOBの交流戦を行ってBBQを楽しんだ。OB25人ほどにメール等で参加を呼びかける。実際に野球場にきてくれたのは2人だけであったが、みんなそれぞれ近況を伝えるメールを返信してくれた。球場へ来て頂いたうちの一人は神戸在住で、1986年小豆島キャンプで、ノックのゴロを補給した際に転んで肋骨を2本ほど折った有名人。もう一人は京都在住でリーブス往年の4番。久しぶりに野球をするのを楽しみにしてきて頂いたが、初打席にヒットを打って一塁ベースを回ったときに足に違和感。その後のプレーは無理とのことで、息子さんに電話して迎えにきてもらう。アキレス腱の断裂でした。思いました。何事も継続が一番。無事これ名馬なり。

2006年、ここへきて、さらに二つの目標があります。一つは、年内に、創設以来の1、000試合達成。二つ目は、球団創設30年目の来年、野球の原点「クーパーズタウン」への遠征です。まだまだ見果てぬ夢は続きます。

この30年近くを振り返ってみて、1,000近い試合をこなしたのだから、相当野球が上手くなっているはずであるが、当人の思惑とは異なってどうもそうではないらしい。でも、飽きもせずに30年近く付き合ってきた野球であるから、その関係はよい方向にこなれてきているのだと確信している。野球との関係を持つことで、いろいろな出会いがあり、繋がりができた。日々の生活に張り合いを作ってくれた。

このチームが結成されたときまだ生まれていなかった選手が、現在はチームの主力をしめて活動が続けられています。30年、それは続いたことに誇りと自負を持てる歳月です。若い彼らがさらに歴史を刻んでくれることを願っています。そして、創部50年、100年の報告をしに来てもらえる日(そのころは多分『別の場所』にいると思います)がくれば、さらに自慢をしたいと思います。「いいか、このチームはな、おれ達が・・・・」、「はい、はい、わかった、わかった。」

野球と我がリーブス球団は永久に不滅です。

背番号「3」に憧れ続けた草野球道士の30年分の土。