Softball in Zimbabwe 素晴らしい出会いに感謝

元青年海外協力隊員 岩田 章一

 

 私は、95年7月~98年8月までソフトボールの普及活動をジンバブエでしてきました。赴任当初は、ほとんど何もない状態からのスタートでした。言葉、文化、習慣・・・何を取っても有利となるものはありませんでした。ただ自分から志願して来れた気持ち「よしやったるで!」という強い意志だけでした。

 まず私が協力隊を志願したきっかけについて述べます。協力隊参加の2年前に私は人生の転機を迎えていました。生まれて初めて入院、手術という経験をしました。社会人になり、仕事は残業、臨出と休みのほとんどない状態と不規則な生活や人間関係、責任感、あせり等のストレスが原因なのでしょうか、心臓の発作が突然起こりました。胸が痛く苦しく、まるで張り裂けないかと思うほどでした。踞ったまま時間が過ぎていきました。動くことも出来ず、友人に病院に連れて行ってもらい、点滴、応急処置をしてもらい意識が遠くなりかけている頃普通の状態に戻りました。診断の結果「突発性頻脈」と言われました。医師より今後のことを考えると手術するのがいいと言われました。私にとって入院手術など遠い世界の話と思っていましたが、従うしかありません。 

 入院中は時間がありすぎます。その間に色々と人生について考えることが出来ました。色々と考えれば考える程、「死」というものが現実として迫って、恐怖が私を支配していきました。もし死んだらどうしよう、今までの人生楽しかったかな、人の為に何か役立てたのかな・・・・ こんなことばかり思っていました。よし手術が成功したら「周りなんか気にせず、自分の好きなことをしよう!何か人の為にしたい」と強く思いました。

 それが協力隊に参加した動機です。だからジンバブエで何もない所から私に有利なものと言えば、自ら志願した「よしやったるで!」という気持ちだけでした。

 さて、他人の飯は白い、隣の花は赤い等日常生活でよく思うこと

があると思います。異国での生活の始めはすべて「新鮮、驚き、感動」でありました。だんだん慣れてくると、「ちょっとおかしんちゃうか?なんで?」と思い、そのうち「怒ること、日本人と比較してのギャップが大きすぎ立腹すること」の方が多くなりました。そんな時他人の飯や花が気になったりしました。色々と悩み考えていると、自ら志願して来たので、これはただの贅沢、不平不満は筋違い、与えられた環境で何をすべきかと思いました。

 社会人時代の仕事と協力隊でのソフトボールコーチとしての仕事を比べると、趣味を仕事として出来る素晴らしさ、幸福感を思うと

前向きになれました。私なりに仕事をしている時は、それが趣味でないと人生がつまらない。一日のうち寝る以外で一番時間を費やすのが仕事であれば、それが好きでないと自分も充実しないし近くの人にいい影響など与えないと思います。

 最近、素晴らしい人に出会える回数が増えました。木戸君、今岡さん、山本さん等多くのジンバブエで出会った人、ジンバブエ野球会、神戸コスモスの人達、伊藤さん・・・・。

 振り返ってみると、不思議と人生の節目節目に素晴らしい人との出会いがあったように思います。もしかすると毎日あるのかもしれませんが、ただ気付かないだけなのでしょうか?

 私にとっての素晴らしい人というのは、共通して私にないものをもっている人です。それは、経験であったり、育った環境であったり、性格であったりします。そして間違いなく人間的に大きく、非難、批判をしない人です。ある知人から教えてもらった言葉でなるほどと思う言葉がありました。「人間、角がとれて丸くなったねと言われるのは間違い。自分のもっている角をうめて、一回りも2回りも大きくそして丸い人間になりなさい。」まさに、私にとって素晴らしい出会いは私の角をうめてくれ、成長、精進させてくれる機会です。

 さて、長々と私の経験や人生観など、若輩にもかかわらず、述べさせてもらいましたが、ジンバブエのソフトボールについて述べておきます。赴任してから「Basegirls」というクラブチームを作りました。弱くてどうしようもないチームでしたが、1年半ぐらいして、ジンバブエソフトボール史上初めて、白人のナショナルチームの人達に勝ちました。その後、紆余曲折を経て、村井氏のチームと合併し、「Mudcats」とチーム名を変え、1950年から白人が独占していたクラブチームジンバブエ1位の座を黒人で史上初めて獲得という快挙を成し得ました。19才以下の代表チームには、私たち日本人の教え子が9割以上を占めるところまで成長しました。

 その反面多くの問題点もあります。問題点の方が多いと思いますが、現在ジンバブエでは、永井君(大阪出身)と瀬町さん(石川出身)の2人によってソフトボールをさらに広め、より強く、いい人間を育てようと引き継がれています。ジンバブエのソフトボールも野球同様、多くの人々のサポートと、現地で汗と涙を流している日本の青年により、着実にそして大きく進歩しています。今後ともジンバブエ野球会を通して、会の皆さんと一緒に楽しく長くいい夢を見て行きたいと思います。

 最後に、私はジンバブエから帰国する前に、現地のジンバブエ人から現地語の名前をプレゼントされました。その名前は「Tawanda(タワンダ)」。意味は、『We are now many. 私たちは大きな家族、私と会えて楽しかったし、多くのことを与えてもらった。だから今は大きい、たくさんある』という意味だそうです。非常に嬉しかったし、私との出会いが多くの現地の人々に何かを残せたのだとしたら、ジンバブエでのソフトボールを通じての活動は本当に満足のいくものだったといえます。

 これからも多くの素晴らしい出会いを探しましょう!

 

追伸:去る4月29日、ジンバブエで2年間仕事をした元野球コーチ、後藤理君が亡くなられました。まじめな性格で、多くの人から親しまれていただけに、突然の知らせにただ驚くばかりでした。志半ばで人生を終えた後藤君に代わって、残った私達で彼の分も生きるしかないと思います。後藤君ありがとう、そしてお疲れさまでした。後藤君のご冥福をお祈りします。