第8回オールアフリカゲームズ裏話集

村井洋介

 

ジンバブエ国内編

 

9月25日、伊藤氏ハラレ到着、デサント社からドネイションで頂いた今大会用ナショナルチームのユニフォームと帽子が案の定、ハラレの空港税関で課税扱いとされ一時没収された。その後3日間に渡り(オリンピック委員会、スポーツレクレーション局、教育省、税関、通関業者との交渉)、マンディと村井は無税扱いでの通関手続きに忙殺される。

 

出発前、副大統領主賓のオールアフリカゲームズ壮行会が開かれた。式直前には教育省高官、スポーツレクレーション局局長による式次第の事前説明が行なわれていたが、その最中に副大統領用赤絨毯が用意されていた。(その絨毯はどう見ても真っ直ぐには敷かれていない。)式次第説明が重要な局面に入った頃、掃除のおばさんがいきなり掃除機で絨毯を清掃、その音は式の説明を掻き消して会場に鳴り響いた。更に苦笑する局長をよそに、説明しているテーブルにあったテーブルクロスをもう一人の掃除のおばさんが直し始め、会場は遂に爆笑。

 

副大統領到着前、そのお迎えの為に役員、選手一同会場前にお迎えの列を作る事になった。列も整い始めたその時、用具係りのおじさんはおもむろに蛍光灯の取り替えをはじめた。

 

全てが整い、副大統領到着、と思いきや副大統領を乗せた車はお迎えの列を猛スピードで無

 

 

 

 

 

 

 

視して通過、役員一同車の後を走って追いかける有様。

 

副大統領の壮行訓話の最中も選手、役員の携帯電話がいたる所で鳴り響くが、それを咎める者は誰一人としていない。副大統領にも気にする様子は伺えない。

 

自称スポーツ通の副大統領が大会参加の各競技種目を読み上げる、アスレティック、ベースボール、・・・・テクオ、テクァ、テクワ・・・なんだこれは!とテコンドーを読み上げる事が出来なかった。

 

サァ、出発日前日、明日の出発は午前6時、3時半には空港に向けて出発・・・のはずが、ナショナルエアラインのエアジンバブエがこれまで政府が払っていない航空運賃が多すぎる事から飛行機の提供を拒否、関係者は大臣を交えてエアジンバブエとの交渉になった。その日、一日中待たされた我々は「ジンバブエ選手団、オールアフリカゲームズに無事出発」の一面見出しの新聞をハラレの宿舎で読んでいた。

 

約40時間遅れていよいよ出発、飛行機の中は宴会状態。そして真夜中にナイジェリアに到着。到着したジンバブエ選手団でナイジェリアの入国ビザを持っているのは予め日本でビザを取得していた伊藤氏一人だけ、それでも我々は空港で選手登録を済まし、うやむやにビザ無しで入国、ビザは後日発給される事になった。お陰で伊藤氏のパスポートにはナイジェリア入国ビザが二つ付く事になった。

 

 

 

ナイジェリア編

 

到着 選手村

 

選手村到着は午前2時、各選手とも疲れ果ててそれぞれの宿舎に入った。部屋は4人部屋、その一部屋に伊藤、村井、マンディ、アメリカ人コーチのソローズが同部屋でこれからの2週間を過ごす。

 

部屋に用意されていた2段ベットは小学生の工作で作ったような代物、2段ベットの上で寝る事になった私はいつ壊れるとも判らない恐怖との戦いが待っていた。数日後には選手村の幾つかの建物の前に残骸と化した2段ベットが積まれていた。

 

驚く事に6000人収容の選手村宿舎、食堂、各イベントホールの全ての電力は24時間体制でジェネレーター(ディーゼル発電機)によってまかなわれていた。大型の発電機が何台も並び、その横には3万リットル入りディーゼルタンク、選手村はその凄まじいエンジン音が昼夜鳴り響いていた。

 

大会会場

 

大会会場の球場視察に出向く。そこで見たものは内野の芝を貼

 

る光景。フェンスにネットを張る光景。グラウンドに土を入れ

 

る光景。大会3日前にしてグラウンドが出来ていないのである。グラウンド作りに携っていた元ナイジェリアナショナルチームの選手が私を見付け、挙句の果てにグラウンド作りを手伝ってくれと言う始末。

 

ちなみにグラウンドは大会当日に何とか形になったものの、それは見た目だけ、芝はいつ剥がれるとも知れず、内野は浜辺、砂場状態の最悪のコンディション。遠目には良く見える外野も芝の下は石ころだらけ。ハラレドリームパークが懐かしい。決勝トーナメントの前日には風でバックスクリーンが崩壊、決勝トーナメントは応急処置のグラウンドで行なわれた。もう一つ、陸上競技場と並び今大会の目玉的建物である近代的なドーム型競輪、ハンドボール場は大会終了2日前にその美しいドーム天井が崩壊した。

 

恐怖の開会式

 

10月4日、開会式が行なわれた。我々選手団は午後4時に選手村を出発、入場行進(ジンバブエは最後から2番目、真夜中の入場行進)まで延々と待たされていた。ようやく開会式も終わりに差し掛かっていたが、式後の混雑を避ける為、ジンバブエ野球チームは式終了前に競技場の脱出を図った。観客席の外に出てビックリ、競技場の正門は閉ざされ、唯一3人が並んで通れるほどの狭いセメントの階段だけが、出入り口になっていた。階段の高さは4階建ての建物ほど、6万人収容の競技場がその階段だけを出入り口にしている為、中へ入るものと外へ出るものがひしめき合って身動きが取れない、至る所で喧嘩が始まり、警察、軍隊が階段に出動、出入りの統制を始めた。階段は人間で埋まり、我々に階段が崩れ落ちるのではないかという恐怖が襲ってきた。その階段を降りる30分間は生きた心地がしなかった。無事、階段を降り、選手一同が揃ったのを確認して、選手村へのバスを探したが、バスが見つからない。競技場に停まっていたバスもあるが、運転手が乗車拒否。結局、選手村に帰還するのにそこから更に1時間以上を費やす羽目となった。

 

選手村食堂

 

選手の食事は選手村にある食堂で摂る。しかしメニューの中心は朝から晩まで炭水化物中心。と言うより炭水化物しか見当たらない。その傾向は日に日に酷さを益していった。たまに見かける美味しそうなものは「あっ」という間に無くなってしまう。その背景には、給仕の人達が自分達用に持っていってしまう事にあったようだ。その為、食事をお皿に貰うのに低姿勢でお願いしなければならない事もしばしばあった。ただ、パンだけは何故か非常に美味しかった。

 

気候

 

暑い。暑さが違うとはこの事。アフリカ12年の私は気候の良いジンバブエ中心の生活、仕事の関係でアンゴラやモザンビー

 

クに行くが、ナイジェリアの暑さは凄まじい。あっという間に真っ黒である。大会中の伊藤氏、村井はあきらかに北アフリカの選手たちよりも黒かった。

 

そして、夜寝る時はクーラーをガンガンにかけてマラリア対策。それはそれは凄い温度差である。ちなみに伊藤氏はクーラーが嫌いのようであったが、日本ならともかくやはりマラリアも怖いようで、クーラーの部屋で眠る毎日を余儀なくされた。

 

練習場

 

他のスポーツは知らないが、野球には練習場が無い。その為、サッカー、陸上競技のサブグラウンドで練習をした。選手村にも一つ小型のサッカー場がある。大会期間中我々はそこも練習場として使用したが、最初に使った際には、真新しい選手村の真新しいグランド、芝も手入れされ、金網フェンスも新品に光り輝いている。練習はスパイクではなくシューズで、ボールもなるべくフェンスにはぶつけないように気を付けて練習を終えた。練習後、食事に向う途中、他の野球チームも同じように練習していたが、スパイクを履き、芝を蹴散らし、ティーバッティングで金網フェンスにガンガン打ちまくる光景を見た。勿論、それに対して注意する者など一人も居ない。次の練習からはジンバブエも他チーム同様の練習をした事は言うに及ばず。当然のように他のスポーツも遠慮無し。大会終了時のグラウンド状態は言わずものがなであった。

 

出来事 1

 

選手村で2メートル近い筋骨隆々の大男に会った。バスケットかバレーの選手と思いきや何と「チェス」の選手。そう、オールアフリカゲームズにはチェス競技がある。チェスがスポーツかは疑問である。日本で言う将棋、囲碁。たしかアジア大会には将棋は無いと思う。

 

出来事 2

 

今回のナイジェリア開催の第8回オールアフリカゲームズでは、のちに3名の選手がマラリアで亡くなった報告があった。 

 

出来事 3

 

次回のオールアフリカゲームズは2007年、開催国はアルジェリアである。ちなみにアルジェリアには野球が無い。その為、野球が次回競技種目から外される可能性も高く、今後はアルジェリアでの野球の普及も重要な問題である。今回ジンバブエチームコーチのアメリカ人フレッド・ソローズ氏はテキサス州に本部のある国際スポーツ研

 

究所の首席である。彼も10年

 

来ジンバブエ野球の普及と発展に協力してきた人物であり、それだけでなくアフリカの野球の普及と発展、障害者スポーツにも大きく携っている。今後は次回オールアフリカゲームズの為にも、今後のアフリカ野球の為にもアルジェリアにも目を向けていく事になる。