ジンバブエからの報告

村井洋介

 

 残念な事に、当地ジンバブエの情勢は未だに一向に良くなる兆しが見えない。極度のインフレ、ジンバブエドルの暴落、物不足、更に医療や教育分野での人材不足も深刻さを増している。人々の生活は苦しくなる一方で、犯罪も増加傾向にある。いまやこの情勢不安は、本来は穏やかで明るいジンバブエの人々の性格にも大きな影響を及ぼしていると言っても過言ではなくなってきた。

生活費、教育費、医療費の高騰、失業、人材流出、燃料不足、薬品不足、品不足、停電、断水、こんなに悪くなるものなのか?これらが更なる悪循環を呼び、ボディーブローのようにじわじわと、しかも確実にこの国に襲い掛かっている。

 

そんな中でも、野球選手達はグラウンドにやってくる。それは現実から逃げる一つの手段なのか?それとも何かを求めてやってくるのか?は解らない。おそらく選手達自身にも本当の答えは解らないのではないかと思う。しかし、彼らはやってくる。そして私もそこに立っている。愛すべき野球を求め。

 

2004年3月20日、ジンバブエオリンピック委員会、スポーツ庁主催のジンバブエ国内のスポーツアワード表彰が行われた。昨年、オールアフリカゲームズでチーム(団体)スポーツ唯一のメダルを獲得したジンバブエ野球チームは見事、チームスポーツ賞部門で銀メダルを獲得、新人選手賞部門ではナショナルチーム二塁手のエマニエル・アクフナが金メダルを受賞した。これはジンバブエ野球の歴史の中ではおそらく初めてであろう快挙である。正直なところ、私は12年間ジンバブエの野球に関わっていたが、このような賞がある事さえも知らなかったのが事実で、この賞が当地の野球というスポーツにはそれほど縁の無いものだったとも言える。しかもなんと、その賞にはメダルの他に賞金まで付いていた。その賞金は、今後の野球普及に当てられる事になっている。

 

4月、今年も南アフリカ国内最大の野球大会(州選抜野球大会-全国大会)にジンバブエチームも出場した。2002年にジンバブエ野球会伊藤益朗氏が日本のオヤジパワーを炸裂させて南アフリカの人々の度肝をぬいたあの大会である。ジンバブエチームは今年で3年連続の出場。2002年の初出場では6戦全敗、確か私は「向上への6連敗」という記事をこのジンバブエの風に記載させて頂いた。昨年はオールアフリカゲームズヘのトレーニングの一環としても参加、チャレンジデビジョンで4勝2敗、今年はグループBで8試合を行い3勝5敗の結果でした。とはいうものの打撃陣は南アのチームを圧倒する長打も飛び出し、2003年2月に関西学院大学野球部キャンプに参加させていただいたジョン・マジロは8試合で5本の本塁打を記録しております。投手陣ではやはり2003年2月に関西学院大学野球部キャンプに参加させていただいたスチワート・マピカが安定した投球を見せました。そんな中、今年の大会での凄まじい活躍を見せたのが、昨年のオールアフリカゲームズチーム選考の最終選考選手で大会も控選手での参加だったルーキーことンタングリ・ムグティ。打ちも打ったり、あわやグループBの大会最高打率か?の活躍でした。

今回の大会では宿舎等の環境が充分ではなく、体調を崩した選手も多かったことを考えれば、まずまずの成績であったと思いますし、投手、野手共に初めてのナイターゲームを含め、4日間で8試合を戦い抜いた事は高く評価できます。大会参加選手は殆どがオールアフリカゲームズに参加した選手でしたが、オールアフリカゲームズ時の正遊撃手で内野陣の要であったジョージ・マンガバが1月に南アフリカに行ったきりジンバブエには戻って来ておらず不参加、2名のオールアフリカゲームズ時の外野手も選抜から漏れました。新しくチームに加わった選手もいますが、やはりまだオールアフリカゲームズ参加の選手に比べレベルの差がありました。

 

(南アフリカ州選抜野球大会大会結果-グループB)

第1試合 ZIMBABWE 9- 5 KWAZULU NATAL PROVINCE

第2試合 ZIMBABWE 6- 9 GAUTENG PROVINCE

第3試合 ZIMBABWE 8-18 EASTERN PROVINCE

第4試合 ZIMBABWE 5-14 USSASA(南ア学生選抜)

第5試合 ZIMBABWE 14- 4 KWAZULU NATAL PROVINCE

第6試合 ZIMBABWE 10- 5 GAUTENG PROVINCE

第7試合 ZIMBABWE  4-21 EASTERN PROVINCE

第8試合 ZIMBABWE  9-10 USSASA(南ア学生選抜)

 

5月16日、悲しいニュースがジンバブエチームを包みました。昨年のオールアフリカゲームズ、4月の南アフリカ州選抜野球大会ナショナルチームメンバーのウイズダム・ンギラジ選手が交通事故で21歳の生涯を閉じました。技術的にはスターティングメンバーには届かなかった選手ですが、物静かで努力家、チームには欠かせない存在で、選手間の信望が最も厚く、ハラレ地区では地区の野球の普及と発展に関する活動をいつでも快く引き受けてくれ、多大な貢献をしてくれた選手でした。ご冥福をお祈りします。 その他にも、ハラレ少年野球コーチでタファラ5小学校先生のクモナ氏、シムザイ小学校(マブク)野球コーチのデタ氏、ブラワヨのムホンバ氏がお亡くなりになりました。