ジンバブエから受けたもの

村井弘治

 

 今年、私たち老夫婦(63才と62才)は、9月22日より10月3日まで、12日間ジンバブエに行ってきました。私にとっては5回目のジンバブエへの旅です。

 今回の目的は、ジンバブエに住み着いてしまった息子(次男)が、結婚することになり、その結婚式とパーティに出席してほしいと、言ってきたためです。彼はジンバブエを通じて、この7年間に知り合った多くの人々(ジンバブエ人はもちろん日本の人々にも)に一言では言い尽くせないほどの助力を受けていますので、親としては、お礼の挨拶をしなければとの思いもあり、行ってきました。季節も良く5回目にして初めて、ジャカランダの満開の花を見ることができました。

 そしてもう一つの目的である、ハラレドリーム球場も二人のおじさんが、のんびりと水撒きと芝の手入れをしていて、更衣室も出来上がって、照明設備の足場が途中まで組まれているといった状況でした。この後の計画では早い機会に、ブルペンを作りたいと言っていました。これからの野球シーズンにむけてハラレドリームパークは満を持してゆったりと選手たちを待ち受けているように感じました。

 私が初めてジンバブエの名前を知ったのは、平成4年の初めごろだったと思います。それは息子が会社を辞めて青年海外協力隊に応募し、その派遣前の訓練が始まったころでした。応募のときの予定では中米のコスタリカと聞いていましたが、実は南部アフリカの国だと聞いて、アフリカについてはまったく知識がありませんでしたので、本当に大丈夫かな?と思ったものでした。しかし野球のことになるともう周りが見えなくなるほどの“野球バカ”ですので、反対しても無駄だろうし、ひょっとしたら私らも現地の観光に行けるかも知れないなと、内心思ったのも事実です。

 それが、これほどまでにジンバブエに関わろうとは夢にも思いませんでした。彼もそうであったろうと思います。

 息子のほうは、2年間の野球隊員の任務を終え、帰国時には日本の多くの方々のご協力で、ジンバブエの教え子であった少年野球チームと女子ソフトボールチームと共に帰ってきて、念願の甲子園を見せ日本の少年少女たちと交流を行なって、無事に協力隊員としての務めを完了しました。この2年間の貴重な経験と、現地で知り得た人々から受けた暖かいもてなしが、もう一度ジンバブエに行って、野球に関わりながら何か仕事を始めようと思い立ったきっかけとなったものと思います。

 そして、その準備の期間中に、外国に野球場を作りたいという『とてつもない夢』を持っておられた、伊藤益朗さんから連絡をうけて、この夢のような計画がスタートしたと聞いています。

 様々な苦労(とくに資金面の担当をされた伊藤さんサイド)の末に、この夢が正夢となり、現地の野球、ソフトボールの大会や、練習場として大いに活用されている様子は、ジンバブエ野球会の『ジンバブエの風第3号』に掲載された、協力隊隊員や現地ソフトボー

ルのプレーヤーの文章にある通りだと思います。これもジンバブエを通じて愚息が受けとった本当に大きな幸せでしょう。

 これからも協力隊隊員の皆さんや、現地で育ちつつある野球ソフトボールの指導者の努力で益々野球やソフトボールが盛んになり、多くの少年少女たちが、ハラレドリームパークを目指して集まってくるものと思います。

 それをゆっくりと、そしてさり気なく応援しておられる、伊藤さんとその仲間の人達に、私は心からの敬意を表したいと思います。

 

 今このへたな文章を書きながら、ジンバブエを通じて知り得た多くの人々を思い出しながら、私は幸せな気分に浸っています。