ジンバブエとのつながり

正岡茂明

 

 伊藤さんに導かれて、ジンバブエとのつながりができ、15年近くが経とうとしている。様々なことがあった。山あり谷あり。私なりに、この間を振り返ってみたいと思う。

 伊藤さんから球場建設の話を聞き、募金活動が始まったのは、阪神大震災から1年程しか経っていない頃だった。その頃、私は地震の被害がひどかった神戸市東灘区の御影高校に勤めていて、野球部の監督をしていた。募金目標の1000万円は伊藤さんの人徳ですぐに集まった。工事に1年半ほどかかったが、1998年ジンバブエにドリームパークが完成した。この頃、私は西宮北高校に転勤していて、野球部顧問ではあったが、監督からは退いていた。この年と3年後の2001年にジンバブエツアーが行われた。私は2001年のツアーに参加するつもりだった。しかし急な研修が入り、土壇場でキャンセルせざるを得なかった。この頃は、村井さんもジンバブエに居られ、青年協力隊の野球隊員の派遣も続いていて、交流も活発に行われていた。ジンバブエ野球会の集いにも、協力隊のOB、OGたちが多く集まっていた。ジンバブエ野球会の発展期と言える。

 そして、2003年にマンディ、マジロー、ステュワートの3名が来日し、関学大の練習に参加、同年伊藤さんがジンバブエナショナルチームに帯同し、ナイジェリアでのオールアフリカゲームにコーチとして参加、翌年にはナショナルチームが関西学院の記念行事に招待され、関学大や青山学院大と試合を行った。また2006年には、シェパードが四国独立リーグのガイナーズ(香川)所属の選手となった。彼は翌年もガイナーズでプレーし、2008年にはエレファンツ(福井)に移籍しプレーした。この時期は、伊藤さんがジンバブエに球場を作り、野球の発展に尽力されたことが、花を開かせた、ジンバブエ野球会の成熟期だった。しかしこの間にジンバブエの政治や経済が悪化を続け、村井さんがジンバブエを去り、協力隊の派遣もストップする時期とも重なっていた。この頃、私は県立尼崎高校に転勤していた。

 その後、我々だけでなく村井さん自身がマンディやシェパードとも連絡が取れない状態で、ドリームパークも放置され、他の目的で使われているとの情報も流れてきた。情報交換がうまく行かなければ、ますます状況が悪くなっていくように感じられ、半ばジンバブエ野球への支援を諦めかけた時期もあった。しかし2010年から新しい動きが出てきた。インターネットの利用経費をジンバブエ会が送金することで、マンディとの連絡が頻繁に出来るようになり、ジンバブエ野球の状況が分かるようになった。そして、村井さんの紹介でレソト・ナショナルチームのコーチをしている南アのカートさんと連絡を取るようになり、8月にカートさんを日本に招待し、夏の集いに参加してもらった。マンディを日本に呼び、青山学院大学の野球部の練習に帯同して、コーチングの研修をさせるという計画はマンディの母の死で実現しなかったが、マンディからの報告でジンバブエ野球が国の状況にもかかわらず、根強く続いていることを知ることができる。今後はジンバブエ会も停滞期を脱して新たな発展期に向かう予感がする。今私は尼崎北高校勤務となり、来年定年を迎えようとしている。いつの日か、ジンバブエの地に旅することを夢見ている。