ジンバブエ ソフトボール

杉山世子

  

実業団はもちろんのこと、大学ソフトボールさえ経験していない私。ジンバブエの協力隊員の中でも最年少で、これといった指導経験、社会経験もない。一体私に何ができるだろう・・・?

 

ジンバブエ第二の首都と言われるブラワヨに赴任した2年前。私はこれといった活動目標も持てず、前任者のやり方に従って、漠然と学校を廻ったり、クラブチームの指導をし始めた。私が三代目だったこともあり、学校にソフトボール部は存在していたし、クラブチームの選手は「フォースプレー」と「タッグプレー」の違い程度はわかるようで安心した。

 

正直言って、初めの一年の活動は退屈だった。学校では生徒に退屈させまいと、ゲームをやらせてばかりいた。ただでさえ飽きっぽいこちらの子供には、基本的なキャッチボール、バッティングの反復練習はおもしろくないようで、ゲームをさせれば、暴投、暴走の中であっても、スコアを競い合う生徒の喜怒哀楽をみることができた。しかしこれらの基本練習を疎かにするから、試合の運びは一向に良くならないし、ピッチャーは山なりのボールを打ってくださいと言わんばかりに放るだけ。レクリエーションとしてのソフトボールをした事のない私は、もっと真剣なソフトボールをしたいという焦燥感に駆られていた。

 

クラブチームは唯一それができる場所のはずだった。クラブチームは当時から3チームあり、不定期だが大会を企画したり、ブラワヨ選抜チームを作ったり、合同練習をしたりと強化を図った。

 

しかし期待をしていた選手が学校を卒業すると同時にソフトボールを離れてしまったり、来たり来なかったりすると、また新たな選手を探し出し、教えるというその繰り返しで、レベルはあまり上がらなかった。やはり決定的な「おもしろさ」はこの頃の活動からは得られなかった。

 

ジンバブエでの一年が過ぎようとした頃、隊員の企画したハラレのクラブチーム選手権にブラワヨ選抜が招待されることになった。そしてその大会で、ジンバブエナショナルチームのメンバーが選抜されることになった。

 

 

大会翌日の第一回目の練習は、突然ナショナルプレーヤーになって戸惑うブラワヨの選手の顔が印象的だった。この頃の彼女たちは、まだ脇役にもなれない、単なるナショナルチームの人数合わせでしかなかった。私は借りてきた猫のように小さくなっているブラワヨの選手を眺めながら、この子猫たちがハラレの選手と肩を並べ、アフリカ諸国の代表選手と対等に競えるまでの選手にするのだと鼻息を荒くしたことをよく憶えている。

 

私の活動目標は必然的に定まった。私自身、今まで見向きもしなかったソフトボールのビデオを観たりと、気持ちが高まっていくのを感じて楽しかった。

 

しかし私の意に反して、グランド以外での活動も多かった。隣国ボツワナでの国際試合の話が浮上し、パスポートどころか身分証明書さえない選手に、これらを取得させなければならなくなった。日本であれば、パスポート取得は容易いことだが、こちらでは事情が異なる。その事情をまったく理解していなかった私は、何度もパスポートオフィスに足を運び、選手と共に列に並び(明け方にはすでに、パスポートを求める人の長い列ができている)、パスポート取得のため奮闘した。

 

手続きは完了したものの、結局ボツワナでの大会は見送られることになった。しかしこれらのグランドの外での活動は、良くも悪くも、選手との距離を縮めるきっかけになったと思う。

 

ボツワナで行われるはずだった大会の存在も薄れ、大統領選挙期間、私たち隊員は国外退避を余儀なくされ、私の活動も一時的に休止せざるを得ない状態となった。約一ヵ月の空白の後グランドに戻ると、ナショナルプレーヤーの面々はつまらないミスを笑いながら繰り返していた。

 

そんな頃、ボツワナで開かれる予定だった大会が、場所を換え、ジンバブエ・ブラワヨで開催されるとの連絡が入った。ホリデー中の予定にあった「ビクトリアフォールズ観光」を塗りつぶし、「ナショナル・トレーニング」に書き直す。新しい予定表は投手練習日を示す「P」の文字で埋め尽くされた。その予定表は私を満足させた。一番やりたかったことが思いっきり出来そうだ、と。

 

 

投手ふたりは不満も言わず毎日練習にやって来た。初めて取り入れた陸上トレーニングも無難にこなした。当然と言えば当然だが、投球自体の変化はなかなか見ることができなかった。しかし彼女たちに心の変化が現れ始めた。反省をするようになり、質問をするようになった。決定的に足りないものはお互いに対する「ライバル心」だったが、それは大会前になってもみられなかった。

 

大会当日、選手全員の顔が緊張のためか強張っていた。私自身、ジンバブエの生活の中では味わったことのない緊張感で落ち着かなかった。とりわけ、この頼りないピッチャーたちにどんな試合ができるだろうかと、不安で仕方なかった。

 

初戦、対ボツワナ。

 

ピッチャーズサークルの中で、小さな体が躍起になって、自分より実力も経験も上の相手に向かっている。第一回目のナショナル練習で、最初に涙を流し、ギブアップしたのが彼女だった。しかしパスポート取得に一番張り切ったのも彼女だった。陸上トレーニングでも、先頭を走ったのが彼女だった。私の想像以上に逞しくなった彼女の姿を見て、こらえきれずに涙が出た。こんなふうに泣ける自分が不思議だと思いながら、ハンカチで目をおさえた。

 

大会一日目、第一戦をひとりで投げきった彼女はすっかり自信をつけていた。そのためか、同じ日の対南アフリカ戦で先発できなかったことが悔しくて、一晩中泣いていたと、後で聞いた。「私が投げたかった」という彼女の気持ちこそが、私が望んでいた「ライバル心」だ。そういえば、大会期間中、いつも仲の良いふたりの投手が一緒にいるところを全く見なかった。

 

いろいろなことがあった二年間だった。試合には大敗したが、私は満足していた。本当は満足すべきではないのはわかっているが、やっぱり私は嬉しかった。

 

最後に、ジンバブエソフトボールがアフリカの星になることを願う。

 

(杉山世子さんは青年海外協力隊平成12年度1次隊ソフトボール隊員 任地ブラワヨ)