ジンバブエ旅行記
渡邉 花(あや)
笑顔
渡邉花と申します。私は今年のGW4月28日~
5月6日までジンバブエに行ってきました。
私のジンバブエでの体験を少しでも皆さんに伝え
たいと思い今回文章をかかせていただきます。
私の中でアフリカを認識し始めたのは、高校生
のときに読んだある本だった。
本の内容は、傷口に麻薬をすり込まれて戦う少
年兵、エイズ孤児や処女との性交渉でエイズが治
るという迷信の話などで、高校生の私はただただ
ショックだった。
そのときは、アフリカは遠い国のような気がしていたが、まさか7年後にジンバブエの地に足を運んでいるとは、考えもしなかった。
ジンバブエに行く前、私は、ジンバブエについて何も知らなかった。
少し、インターネットで調べてみたものの、ハイパーインフレの話とか、暑そうだなー、危ないかなー、ご飯はおいしく無いだろうなー、虫とか食べそうだなー、自然はたくさんあるだろうなー、といった具合に偏ったイメージしか無かった。
情報が無さすぎて正直怖かったので、ジンバブエ野球会の伊藤さん、ジンバブエへ行ったことのある大学の先生や、友人に話を聞いた。そうすることで私のジンバブエ行きへの不安はなくなった。
しかし、「ジンバブエへ行く」というと、ジンバブエを知らない人たちの反応は、「それどこ?」「え、そんなとこいくの?危なくない?」「一人で行くの?」「注射いらないの?」そんな答えだった。これが、行く前の私を含めたジンバブエのことをあまり知らない日本人のジンバブエに対する印象なんだなと思う。
私は、そういった人たちにこの文章を読んでもらい、少しでもジンバブエへの印象が変わればなーと思っている。
今回は、ジンバブエで、首都ハラレ――グウェル――ブラワヨ――ヴィクトリアフォールズ(世界三大瀑布)を1週間で周った。
初日からトラブル発生。香港からの飛行機が遅れ、ヨハネスブルグ発の飛行機に乗り遅れてしまい、ヨハネスブルグで8時間待つことになったが、無事にハラレに到着した。
「寒い。」ジンバブエのはじめの印象だった。
アフリカ=暑いと思ってやって来た私は、長袖を2枚しかもっていなかった。みなさん、アフリカは暑いだけではありません。寒いのです。この時点でカルチャーショックだった。
到着した日は、ジンバブエ野球協会(ZBA)のマンディ氏の家にお世話になった。
街灯が無いジンバブエの夜の道は星が見えてとても素敵だった。
次の日は野球クリニックの見学。
朝、ZBAのメンバーでいつもお世話をしてくれた3児のお母さんのディリが、「お風呂の準備できたよ~」と言って持ってきたのは、バケツ。
私はその瞬間理解した。これがここのお風呂だと。
彼女はキッチンでお湯を沸かしてバケツに入れて持ってきてくれたのだ。
「この水(水をためた大きな瓶みたいなの)を入れて調節してね。」
アツアツのお湯に少しずつ水を入れて温度を調節した。
水は決して綺麗ではなく、日本みたいなお風呂でもないけれど、移動でシャワーを2日間浴びていなかった私はとーってもすっきりした。最高の湯だった。
「AYA、明日は、この家には戻ってこないからね。学校に泊まるよ」
「学校に泊まる!?」想像できなかったがワクワクした。
今回、ZBAは、中高生の女子野球のキャンプを高校で行っていた。
2泊3日、朝から夕方まで途中食事(キャンプ中の食事は、サザとキャベツと米だった。大量のキャベツを子どもたちと一緒に刻んだ。)を挟みながら炎天下の中、一日中練習だった。
練習中、やはり野球道具は足りず、全員がグローブを持つことは難しかった。
それでもスポーツは、人の心を打ち解けさせる。
「マニャ!マニャ!」(走って!走って!)と叫びながら、私は子どもたちと一緒に野球を楽しんだ。
ホームランも1本しっかり打ってきました!子ども達と体を動かせてとても楽しかった。
教室
夜は、ZBAのHIVのセミナーが行われた。
先生やZBAのメンバーが子ども達に向けて、
野球とHIVを繋げて話をしていた。私もたく
さん学んだ。本当に興味深かった。子ども達
は私がいることによってちょっと緊張してい
るようだった。
ここで感じたのは、子ども達の集中力と先
生やZBAのメンバーたちの熱意。
子ども達は一日中練習で疲れているのにもか
かわらず、ものすごい集中力で、すごく真剣
にセッションを聞いていた。
そして、先生のプレゼン力はすごかった。
特に、何か道具を使うわけでもないが、自分の声と体で子ども達に伝えようというパワーが感じられた。
このセミナーでジンバブエ人の可能性(と私が言うと失礼かもしれないが、)を強く感じた。
夜は、子ども達の寮に寝かせてもらった。広い部屋にみんなで雑魚寝した。子ども達はなかなか寝られないようだった。修学旅行を思い出した。
子ども達が寝てから、今日もキッチンからお湯を運んできてシャワーを浴びようと思ったのだけれど、浴びる場所が、寮の外。
天の川まで見えてしまう満天の星空の下、外は寒く、真っ暗月明かり。
そんな中、バケツに入れたお湯を浴びるのは怖かったので、(風邪も軽く引いていたので)体をタオルで拭けるところだけ拭いた。でも、体を拭きながら流れ星を見られた。本当に素敵だった。
学校のトイレはやっぱり怖かった。日本とは違う怖さがあった。
学校のトイレにはドアがなく、水が出ないし、水が出ても流すのにコツが必要!だけど、きちんと誰かに管理されているのか、次の日トイレへ行くと昨日までたまっていたものがすっきり綺麗になっていた。
帰りのバスは貸切。
バスの中では、子ども達が歌を歌い、かばんをドラムにしてたたき、楽しんだ。
ジンバブエの人は本当に歌が大好き。
HIVのセッションも歌から始まり、野球中も子ども達は走りながら歌うように声を合わせていた。
青空
待ち時間も歌を歌い、また、コンビと呼ばれるミニ
バスでは常によくわからない音楽が大音量で流れて
いる。
音楽もまた人を打ち解けさせるパワーがある。
私たちは、休みなく歌いながら、時には踊りながら、
首都ハラレまで帰った。
夜のジンバブエは、とても静かで星が綺麗。私は
夜、よくZBAのみんなと散歩に出かけた。
ハラレの町では、静かなアップタウンと人々の生
活が見られるダウンタウンを歩いた。
アップタウンは、本当に静かで、人が少なく、高級そうな建物が並び、かつては黒人が通ることが許されなかった通りもあった。
一方、ダウンタウンでは、ハラレ「眠らない町」の通り、夜遅くまでコンビの音や、人々の活気づいた声やお店を開いているのが見られた。
「ハラレは昔、サンシャインタウンだったのよ~もっとごみもなくて綺麗だったの」
とディリは説明してくれた。今は、もうサンシャインではないという言い方だったが、私にとっては、ジンバブエはサンシャインだった。
食事は、虫は出てこなかった。サザはなかなかおいしくて、チキンも食べられた。
危ない!は、偏った考え方だったと気づけた。
何よりもジンバブエ人は、フレンドリーで、優しく、子ども達は、シャイでかわいらしかった。特に、ジンバブエ女性はみんな笑顔で素敵だった。ものすごく美しかった。
そして、女性らしい強さがあった。
日本に戻って、私は幸せだった。
それは、日本に帰ってきたことで幸せを感じたのではなく、ジンバブエと言う国に出会えたことに幸せを感じていた。
ジンバブエには、エイズなどの日本には無い深刻な問題があるのにもかかわらず、なぜか人々は明るく、笑顔で、幸せそうに見え、スマートだった。
私は、そんなジンバブエ人たちに(特に女性)に強い憧れを持った。
あのドレッドヘアーを真似したいくらいに。
これからのジンバブエ・ZBAの発展をとても楽しみにしているし、それに関わっていきたいと強く感じた旅だった。
私の旅行記をここまで読んでいただきありがとうございます。
ジンバブエ野球会の皆さんにとっては、あまり新しい話はなかったかもしれません。
しかし、このような機会をいただき感謝しております。
また、夏の集いでは、この文章とは違った視点から、私が見たZBAの活動の報告をさせていただく予定です。
どうぞよろしくお願いします。