ジンバブエ野球会と私

兵庫神戸コスモス 徳山銑造

 

 今回の阪神大震災で大きな被害にあった私は『禍を転じて福となす』ということわざのように、この機会をとらえて何とか転機にしてみたいと考えていた。_ そして、障害者である私は今まで全く縁のなかったスポーツをしてやろう、と考えたのはまだ避難所だった小学校の体育館暮らしのころだった。そして、いろいろな人のご厚意で障害者の野球チームに加入させてもらうことになった。_ ここで出会ったのが伊藤さんであった。真っ黒で、いかつい顔立ちはまさに野球人という感じであった。私とは全く共通点も無く懸け離れているようだが、たまたま同い年で練習場になっているグランドヘの行き帰りの交通手段が同じであった。_ 確か、2度目にお会いしたときに夢の球場づくりの話を聞いたと思う。何とこの時期に大らかで余裕の有ることを言う人だなと思った。当時の私は避難所から仮設住宅に越したばかりで、避難所でまだ前途が見えず、不安と混乱が続いている知人も多くいて、この話を深く味わっていなかった。つまりいい加減に聞いていたというのが本音である。この後すぐに、伊藤さんはボランティアでインドに飛んだ。私の今の友達にはいないパターンの人だなと思った。_ 私は今までの分も取り返すぞと言わんばかりに野球の練習では身体を動かした。技術は未熟、体力もない、ルールもわかっていない。ただ下手なりに必死であった。次の日は筋肉痛で階段の上り下りがつらく、よちよち歩きであった。こんな気持ちを十分にいやしてくれ、はげましてくれたのも、伊藤さんであった。_ 会う度に夢の球場づくりの近況報告を聞いた。遅々として進まぬ計画にいらだちどころか、「今を味わう」とか「経過を楽しむ」とか、当時の私の震災からの再建への思いとは逆行するような、のんびりと構えた言葉がどんどん返って来た。そんな中でいかに自分があくせくして生きて来たか、ということを自問するようになった。_ 伊藤さんのジンバブエ現地の視察旅行も終わり、本格的に募金活動を始めるために「ジンバブエFOD委員会」を発足させることになった。そのメンバーの一人として声を掛けていただき二つ返事で参加させていただくことになった。この当時の私は、震災で多くの人の力を借りて生きて来た。名も知らず、初めてみる顔の人も多くいて、いろいろと助けてもらった。僅かであったかもしれないがこの全ての人の思いで今日、再建へとこぎつけられて来ている。本当に感謝にたえないことである。反面、何かをしていただいたという負担の気持ちがない。ただ残ったのは人々の親切な気持ちを知り、感謝しているだけである。時には自分も逆の立場に有りたい、人のために何かをしたいと強く感じていた。_ 初めのこの会議は伊藤さんと親しい人ばかり10人程度集まった。伊藤さんからの紹介では「障害者野球をやり始めた徳山さんです。年は僕と同い年です」というものだった。特別な紹介とは思わないだろうが、私にとっては大変大きな意義のある紹介であった。

 先にも障害者であることは述べたが、3歳のときに交通事故に遭い、右足を下腿で切断した。以後、義足との付き合いを長々と続けている。幼稚園から高校までなんとこんな私であるということを公表していない。「歩き方がおかしいな」と尋ねて来る人も多くいたが、なにも尋ねず対等に付き合ってくれる人も多い。何十年と付き合っている仲間もだれもそんなことを質問しない。私もそれに甘えて何も言わない。でもそれを聞かれないように私なりに苦労をしている。すなわち裸になれないのである。

 どうしようもなくなったときは私から公表したこともある。妻を含めて20人以内であろう。ただ子供のころ一緒に遊んでいた近所の仲間はみんな知っていて、親しく付き合ってくれていた。親も学校の先生も私のことを公表する方向には賛成しなかったようだ。実社会の中で私も公表することを前向きに考えたことは少ない。公表することは私にとって決して有利にはならないと、いろいろな体験から知っていた。そして、小心ながらこの課題といまだに付き合っている。

 伊藤さんのこの紹介は私にとっては画期的なことだった。大勢の前でなんら違和感も無く障害者である自分が認知された。すなわち裸になれたのだ。_ この会の素晴らしさは会員の方であるならだれもが認めるところだが私にとっては、健常者の中にいて障害者でおれる唯一の場、これほどリラックス出来る場所は家庭、障害者野球以外にまだない。そして、いろいろな人と出会いがあり、楽しい会話が有る。 こんな居心地のいい場所で数回の会議をし、募金活動も予想金額を大きく上回るほどのものになり、昨年のゴールデンウイークに9人の方が現地ジンパブエの完成した球場を訪れた。私も出来るだけの知恵を出し、努力はしたものの、忙しいサラリーマンが長い休みの後、さらに休むということは出来なかった。旅行期間中残念で仕方なかった。でも「いつか必ず自分も行くぞ」と言う決意でまた今度の『ジンバブエ野球会』にも参加をさせていただいている。

 帰国した青年海外協力隊員の話も新鮮でなにか夢見心地にさせてくれる思いである。みんな、若々しく、気さくで、礼儀正しく、年を取っている我々にも不愉快な思いは一切ない。学校を卒業してから一つの会社で勤続30年以上サラリーマンを続ける私は、身も心もボロボロで目指すは定年退職のみである。もう一度人生が有るなら彼らのような生き方もしてみたい気持ちである。

 

 今、ジンバブエではこの球場を通じてさまざまな人達が出会っていることだろう。そして、ゲームを通して感動、感激も数多く味わっていることと思う。いつまでも続くことを願ってやまない。ジンバブエ・ハラレ・ドリームパーク万歳。