ジンバブエ野球会について

岡崎誠吾

 

1998年4月にジンバブエ初の野球場「ハラレドリームパーク」を作ったジンバブエFOD委員会を引き継ぎ、アフリカの野球振興と野球交流をゆったり支援する会である「ジンバブエ野球会」は非常に私にとって居心地の良い場所です。

ゆったり、あせらず、しかし、じっくりとサポートしている所も大好きです。

私の最初のジンバブエ国との出会いは、最悪でした。第1回ジンバブエツアーに勇んで参加したのですが、英語が余り得意でない(片言英語レベル)私はジンバブエの入国審査所で自分の2倍位横幅のある怖そうな審査官?のおばさんに早口の英語で次々に質問責めにあい、答えられないでいると大声で一方的に罵られた後、こいつには英語がほとんど通じなく、危なくないだろうと判断され、やっと入国出来ました。他のツアーのメンバーに遅れて荷物受取カウンターに行くと今度は荷物がいくら待っても出て来ません。どうすれば良いのかと途方に暮れていると「あそこの列に並べば良いですよ。」と日本語で救いの声が。「海外旅行では荷物が遅れる事が時々あるみたいですね。」と言われて、ちょっと安心したのも束の間、列に並んでいるのは私も含めて5人位いました。先程、声を掛けてくれた日本人女性も私の2人前に並んでいました。さて、私の番になって、びっくりしたのは「あなたはどこのホテルに泊る予定だ?荷物が着いたら電話してやるから取りに来い。」と偉そうに言われた事です。日本での対応とはえらい違いだなとびっくりしました。

荷物は現在も私の手元に戻って来ておらず、未だ海外旅行中です。ちなみに、補償請求相手は最後に乗った飛行機会社(南アフリカ航空)でした。私と同じ目に遭った時は参考にして下さい。又、現地で交渉すると生活水準の差も有るとは思いますが、3千円位しか補償しないと言われたので帰国後、日本で交渉すると遺失品の80%位(7万円)戻ってきました。

初めてのアフリカ旅行をなんと手ぶら状態で迎える羽目になり、着替えや生活必需品等を調達する為にスーパーに行きましたが、服のサイズ等の表示が日本と全く違い困っていると、親切な店員さん(実は店員さんではなく一般の客でした)が案内してくれました。後で、案内したのだから案内料金を寄越せと言われるのかとちょっとドキドキしていると笑顔で「ジンバブエで良い旅を!」と言いながら立ち去っていきました。ジンバブエ人てなんて親切なんだ。入国時に感じた嫌な思いは吹き飛んでいました。又、ジンバブエ滞在中にはJOCV(日本青年海外協力隊員)の皆さんにも大変お世話になりました。感謝。

私のジンバブエ国との出会いという、長い前置きはこれ位にして「ジンバブエ野球会」を支える人々について書かせて戴きます。

先ず、この会の主催者の一人である伊藤益朗さん。私が関西学院高等部野球部員時の監督をされていた頃からのお付き合いですから、もう26年になります。当時の伊藤さんは、社会人野球をやめたばかりの28歳にも関わらず、40歳前後にしか見えませんでした。(すいません)でも現在は年相応に見えます。当時、野球の上手くなかった私達を一生懸命に指導しても少しも上達しないので、伊藤さんが何度も悲しそうな顔をされたのを覚えています。その練習方法は毎年変化し続け、当時ではまだ流行ってもいなかったストレッチや筋力トレーニング等を積極的に取り入れたり、練習中に水と同時に塩補給させたり、試行錯誤の繰り返しだったと思います。夏の最後の大会時の伊藤さんの笑顔(練習では絶対に見せた事がない笑顔)は未だに強烈に覚えております。3年生の最後の大会に叱っても仕方がないのなら、自分は笑顔で選手達が普段通りプレー出来ればという気遣いだったと思っています。(私の思い込みだったらすいません)とにかく、怒られた事は余り無いのにも関わらず怖い存在でした。

それから大学時代の4年間と就職してからの3年間(就職場所が関東の為)は縁が薄くなっていましたが、転勤で関西に戻り、草野球チーム「リーブス」で一緒にプレーする様になり、再び縁が出来ました。更に、伊藤さんが社会人野球チーム「オール播磨」の総監督を引き受けるに当たり、10年間コーチしていた身体障害者野球チーム「神戸コスモス」のコーチを代りに引き受けました。チームのメンバーの伊藤さんに対する信頼感は抜群で、プレーだけではなく、人柄でも選手達にとけ込んでいました。私は自分の能力の限界も有り、2年間で辞めてしまいましたが、10年以上コーチをされていた伊藤さんはすごいと思っております。伊藤さんとは比較的共通部分が多いのに(関学中・高・大・野球部・草野球・コスモス等)未だに、理解出来ないスケールの大きさを感じます。

次に伊藤さんを支えている奥様について印象に残っている会話を紹介します。新聞で「関学元野球部監督ジンバブエに野球場を」の記事が出た時に伊藤家に電話を掛けた時に奥様は「去年がインドでマザーテレサの下での奉仕活動、今回がジンバブエに野球場、教え子のあなた達に今後迷惑を掛けるかもしれませんが宜しくお願いします。家の主人も行き着くところ迄行き着きましたわ。ワハッハッハ・・・・・・・。」と明るい声、ホッとした事を想いだします。又、ジンバブエツアーでハラレドリームパークで私達が1日中野球を楽しんでいる姿をみて「食事もせず、ほんまにこの人達は野球好きなんやねー!子供に帰っているみたい」と明るい声。そしてジンバブエで荷物の着かなかった私に一番気を遣って戴いたのも奥様でした。

最後に伊藤さんともう一人の主催者、村井洋介さん。ジンバブエツアー時、一番興味があった人です。伊藤さんの夢の様な計画にのってくれた人はどんな人かな?私の印象は野球が大好きなやんちゃ坊主がそのまま大きくなった感じです。(すいません)ツアー滞在中、村井さんの車のカセットから流れていたUAの歌「情熱」、日本に帰ってからも聞きました。村井さんが帰国時、関西学院高等部1、2年生主体チームと我々OBチームが試合した時の、伊藤さん、村井さんの継投でノーヒットノーラン(軟式野球で7回)にはびっくりしました。村井さんは眼鏡がずれ、自分のピッチングが出来ないと満足せず、途中から私の眼鏡バンドを借り、むきになってピッチングをしたのを覚えております。又、村井さんを語るには忘れてはならないのがご両親です。集いがある度に名古屋から参加され、お二人とも笑顔がとても素敵です。このご両親の息子は絶対良い人だと納得させられました。

「ジンバブエ野球会」は、まだまだ他の多くの素晴らしい人達に支えられています。その素晴らしい人達をもっと紹介できなくて残念です。

この居心地の良い「ジンバブエ野球会」がいつまでも続きますようにお祈り致します。