フィールドはカンボジア

小林拓也

 

10月21日、カンボジアでの約10ヶ月の生活がスタートした。私は、東京のボランティア団体から派遣された。その内容は、日本語の教師と野球の普及。多くの友人に、休学してまで行く、その理由を聞かれた。理由は一つではないし、さまざまな思いがあって決意した。その中で一番大きな理由を占めたのは、何もないところで野球を広めたいという『好奇心』だ。

 私の派遣される場所は、カンボジアの南東にある、ベトナムに近いプレイベン州というところだ。その中の、学校の敷地にある建物の中で生活をしている。そこはまだインフラが充分ではなく、電気もないし、水道もない。電気は車のバッテリーを買ってきて、それに蛍光灯をつけて使っている。水は、ポンプ式の井戸を使っている。慣れれば不自由は感じないが、お湯が出ないので、水浴びが寒い。それに洗濯も手洗いなので、疲れているときは苦に感じる。

 それに、虫が気になる。日本ではセミも捕まえられないくらいの虫嫌いだったから最初はとまどった。日本から持っていった数少ない日本の飲み物のココアをネズミにかじられ飲めなくなったり、水浴び場にゴキブリが5,6匹いて格闘したり(ちなみにカンボジアのゴキブリは日本のよりもよく飛ぶ。だから余計に気持ちが悪い)。それに、部屋にサソリも出た。暗いので数日間何だか気付かなかったが、蛍光灯を買ってきたその日に、サソリだとわかった。でも、一番嫌なのは、アリだ。黒いアリと赤いアリがいて、赤いアリは噛まれると結構痛い。その赤い方のアリが部屋の壁に行列を作っていた。今までの派遣教師の方にお話を聞くと、虫とは共生するしかないとのことだったので、しばらく放っておいたが、方向が徐々にベッドの方に変わってきた。さすがに放っておくわけにもいかず、ほうきで掃いたり、ベッドの足に両面テープをはって、登れないようにしたりした。それでもまだ油断はできない。

初めの1ヶ月は現地の方との調整があったので、生活に慣れるための良い準備期間となった。でも、一日中やることがないので、リズムが作れず熱がよく出た。咳が苦しくて目が覚めることもあった。海外で長期間暮らした経験がないので、すごい不安だった。きちんとした病院があるプノンペンまではバイクタクシーと乗り合いバスに乗り継いで行くので、3時間ほどかかる。だからそれが余計に不安にさせた。体調が悪くなる度に、海外旅行保険の内容を確認した。

そんな生活が続いた後、村に着いてちょうど一ヵ月後に日本語の授業をすることになった。そこで、やっと気持ちが落ち着くことができた。このまま何もしない日が続いたらどうしようかと考えていたので、ほっと一安心だった。そして、それからさらに一週間後の11月30日に初めての野球の授業をした。校長先生が、高校1,2年生の体育の授業で野球をしてもいいという許可を出してくれた。喜びと同時に、授業がうまくいくかという不安も生まれた。

当日、いつも履いているサンダルから、日本から持ってきた靴に履き替えて授業をした。暑い中、生徒は集まってくれるかどうか不安だったが、授業開始時間を過ぎて、続々と集まりだした。全部で5クラス。クラスの人数はバラバラだが、だいたい、30人~50人くらい。

体操をしてから、投げ方や並び方などを教えて、キャッチボールに入った。始めはきれいに整列していたのに、授業が終わる頃になると、いたるところからボールが飛んでくるようになった。一日に5時間全てが固まっているので、野球の授業をやりきったら、へとへとになっていた。喉も痛い。でも、とりあえず野球の授業が始まったという喜びの方が大きかった。

授業は今までで3回行い、全てキャッチボールをしているから、早いかもしれないが、次は「打つ楽しさ」を知ってもらえるような授業をしようと思う。うまく広がるかどうかはまだまだわからないが、根気よく取り組んでいこうと思う。

今回の野球の普及活動に関しまして、準備段階から様々な方にお世話になりました。道具を協力して下さった方、道具の提供を申し出て下さった方、カンボジアでの道具使用に関してのアドバイスを下さった方。そして、多くの方に道具のご協力を要請して下さり、また、様々なアドバイスを下さったジンバブエ野球会の伊藤様。もし、こうした方々のご協力がなければ、私はカンボジアで野球の授業を行うことはできませんでした。この場をお借りして、お礼の言葉を申し上げます。本当にありがとうございました。

今後、どのようにして授業が進んでいくかわかりませんが、もう一度、お礼が言える機会がありますよう、それまで感謝の気持ちを忘れずに取り組んで参りたいと考えております。