マンディから学んだこと

正岡 茂明

 

 今回、マンディは3月10日から4月6日までの約1ヶ月の日本滞在で、兵庫県養父市の木戸さん宅、岡山県浅口市の堤さん宅に宿泊した日を除いて、我家で暮らした。話す時間はたくさんあったはずだが私の英語力の乏しさと、年度末から年度初めの忙しさにかまけて、しっかり話をしたわけではない。だがマンディがこの日本滞在で多くの事を学んだ(と私は思う)と同様に、私もマンディから貴重なことを学んだ。この期間中に2度、彼と2人だけで行動したことがあった。この時は喋らざるを得ないので、何とか頑張って話した。片言ではあったが、結構共感することも多かったように思う。とはいえ、これは私が感じたことなので、ひょっとするとマンディには違って理解されていたかもしれない。

 1度目は3月31日(木)午前中、甲子園球場へ選抜高校野球を見に行った時である。阪急電車で塚口~西宮北口~今津、阪神電車で今津~甲子園と、「2駅ほど乗っては乗換え」を2回もした。我家から甲子園まで、直線距離ではそう遠くないので、自転車でも約30分で到着できるというような話しをした。九州国際大付属vs北海の試合を観戦しながら、接戦だったので思い切ってエンドランや盗塁をしても良いのではというような話しをした。マンディも同感だと言っていた。それ以外にも、投手の交代期について話したように思う。

 2度目は4月3日(日)午前中、のじぎく特別支援学校のグランドへ神戸コスモスの練習を見せてもらいに行った時であった。早起きして7時前に家を出発、阪急電車で新開地まで行き、神戸電鉄で三木市の緑ヶ丘駅下車、そこから20分近く歩いて、のじぎく特別支援学校のグランドに到着した。非常に寒い日だった。マンディはアップからキャッチボール、ノックまで、コスモスの部員と全く同じメニューをこなした。気温が低かったので、どこか痛めないか心配だったが、最初は軟式ボールのバウンドに戸惑っていたものの、すぐに慣れて軽快な動きを見せた。特にキャッチボールでは肩の強さ、コントロールの良さをアピールしていた。彼が30歳代後半だと知ると、皆同様に「20代だと思っていた」と驚いていた。バッティング練習に移ると、マンディは参加せず、ベンチサイドで私と一緒に練習を見た。ホームベース近くでバッティングと並行して近距離で個人ノックをしていた。私が、「自分は個人ノックが好きじゃないので、自分が指導していた時にはあまりしなかった』と言うと、マンディも同意見だった。それから、休憩時に皆が群がってタバコを吸うので、「スポーツマンはタバコ吸わない方が良いのに」と私が言うと、彼も同感だと話した。

 これら以外でも、私の妻を介して、マンディの考え方や活動について多くを理解でき、その中から、学ぶことが多かった。実は、村井さんがジンバブエを離れ、マンディ達とも連絡が取れなくなっていた頃、私達はマンディを疑うこともあった。しかし今回彼の口から直接話が聞けたことは、本当に素晴しいことであり、マンディが困難な状況の中でも諦めること無く、努力を続けていたことを知り、一時的にせよ疑ったことを申し訳なく、そして恥ずかしく思った。 

 3月13日(日)のジンバブエ会春の集いで、彼は、「ジンバブエでなぜ野球を普及しようとするのか」という問いに対し、「かつて対立していたグループも武力で決着をつけるのではなく、野球のようなスポーツで勝敗を決めるほうが良い」、「野球をしている時は空腹を忘れる」、「サッカーのようなメジャーなスポーツは組織が出来上がってしまっているので、政治や外交関係などに影響されることが多い」などの答をした。すごく重みのある言葉だった。また、「野球協会の仕事をしながら、どうやって生計を立てているのか」という質問(私も聞いてみたいと思っていた)には、「果物の貿易関係の仕事や、AIDS対策の普及活動をして生計を立てながら、野球の普及をしている」との答えだった。これを聞いて、頭が下がる思いだった。メールを出してもすぐ返事をくれないと不満に思ったりしたが、彼はギリギリのところで頑張っていたのだと納得した。彼は以前からケンコーボールの元営業担当者(村井さんと懇意にされていた方で、現在は同社顧問)と積極的にメールで連絡を取っている。今回の来日に合わせ、遂に東京から海外担当の北原氏に大阪まで来てもらって、直接話し合う機会を作ることに成功したのである。

 この原稿を書いている時期に、マンディから「昨夜自宅に泥棒が侵入し、コンピュータを盗まれたので、今ネットカフェからメールしている」との連絡があった。本当に日本という国は恵まれているなと思う。ジンバブエではいつ、どんなアクシデントが起こるかわからない、という状況だろう。そんな中でも夢を持って生きている人が居り、その人と自分達は繋がっていると思うと、ワクワクするような気持ちになる。野球協会の組織や学校への普及活動も、本当に良く考えられていて、費用をかけずに、実効性のあるものを追求しているようである。教員へのワークショップも、集まりやすい交通の要所にある学校を借り、遠くからの参加者はその学校の教室で寝泊りし(マンディ達コーチ陣も常に寝袋持参)、みんなで食事を作り、そんな中で仲間意識を育てていくようなプログラムだと聞いた。このような講習会への参加希望者も増加しつつあるらしい。

 マンディの野球に関する情熱は半端じゃない。日本から帰国後も、翌日からシニアチームのキャンプやら報道関係者向けワークショップ等々、精力的にこなしている。わずか数時間の睡眠しかとっていない、とのメールも来た。野球にかかわれることが嬉しくてたまらないのだと思う。そんな多忙の中、週末には時々、自宅から歩いて小一時間の距離にある娘、イタイちゃんが暮らす学校の寄宿舎まで面会に行き、ひと時の楽しい時間を過ごしている。南アの高校で数学を教えている奥さんとは、今年8月、久しぶりにイタイちゃんと一緒に会いに行く予定だとか。マンディには、自分の健康管理も含め、息の長い活動を期待する。

 最後に、ブラワヨ在住のシェパードについて。現在彼は、義理の父親が経営する農園の手伝いをしており、電話で話したマンディによると、今は時間的、経済的に余裕がないので、野球の手伝いはしばらくできないらしい。将来は、ブラワヨ地区での援助をマンディも期待しているとのことであった。