モリスとの再会

元ジンバブエ野球隊員 松本裕一

 

「まっちゃん!」

「ヘーイ、モリス!! リンジャーニ?(現地語で元

気?)」

 5月16日、モリスがわざわざ福岡の職場まで訪ねて

きてくれた。1999年12月以来、15年あまりぶりの再

会だった。

 当時20代前半だったモリスと比べると、さすがに

15年の月日を経て、すっかりセクール(=現地語で

おじさん)の風貌になっていたが、話し方は何も変わ

らず、とても懐かしく、思わず抱き合って再会を喜んだ。

 モリスとは1997年1月に会って以来、1999年12月までの約3年間、ジンバブエ第2の都市・ブラワヨで来る日も来る日も地元の小中学校などを巡回し、現地で最も一緒に時間を過ごし、喜怒哀楽を最も共有してきた。そのため、いったん腰を下ろして話を始めると、モリスに話をする機会を与えることなく、自分の方から一方的に質問攻めにした。

現地の野球事情に始まり、当時教えていた子供たちや先生たちの近況、よく食事や遊びに行っていた場所の現状など、時間が経つのを忘れてしまうほどで、話をすればするほど当時の記憶が蘇り、ジンバブエで過ごした日々がより一層懐かしくなった。

 その一方、「現地で教えていた野球少年たちのほとんどは現在南アフリカで生活していること」「学校レベルではほとんど野球がプレーされていないこと」、「ハラレ・ドリーム・フィールドが野原に近い状態なっていること」などを聞くと、とても寂しい気持ちにもなった。

 現地に赴任当時、初代ジンバブエ野球隊員の村井さんがジンバブエでの野球普及活動の第一歩を記して以来、数多くの隊員の皆さんの現地での尽力、また日本からジンバブエ野球会の皆さんからの有難いサポートのお陰で、ジンバブエの野球も一世代くらいすれば本格的に根付いているのかなあと思っていたが、あれから15年が経ってジンバブエ野球も風前の灯になっていることを知り、改めてまだまだ末永く日本からサポートしなければジンバブエ野球の灯火はいつ消えてもおかしくないと実感させられた。

 そんな中ただ一つ実感したのは、物(モノ)は現地の経済状況や時間の経過により消滅したり消耗したりもするが、今回のモリスが良い例だと思うが、人(ヒト)は少々の経済状況の変化や時間の経過があっても残り続けるかなあということだった。

 モリスは経済的に貧しい家庭で育ったものの、愛情あふれる両親のもと、素晴らしい人間性を持ち、人間や野球への愛情も深く、我々野球隊員がブラワヨで活動する際も、常にジンバブエの野球、現地の子供たちのために我を忘れて献身的にサポートしてくれた。

 そして野球隊員がブラワヨから撤退した後も、自らの努力を忘れず勉強を続け、また堤君(ブラワヨ野球隊員で現在おかやま山陽高校野球部監督)の継続的な金銭的サポートもあり、その後現地の大学に進学し、卒業後はブラワヨにある大学で勤務し、今回もこうして自力で日本を訪れることができるまでに育った。

 モリスによると「当面は今から5年後の2020年の東京オリンピックで野球復活が見込まれているので、そこに向けた野球の普及と代表チームの強化プランを考えることが課題」と、今もジンバブエ野球協会の会長代行として、ジンバブエ野球をこれからどうして普及、強化させるかを真剣に考え、それを実行に移そうとしている。

 ジンバブエ野球の普及にはまだまだ日本からの継続的な物質面と人材育成面、両面でのサポートが重要で、現在はジンバブエに野球隊員も復活しているとのこと、ジンバブエ野球会の皆さんと一緒に自分自身もできる限りのサポートをしっかりと続けていきたいと改めて思った。

 2001年に青年海外協力隊活動を終え日本に帰国して以来、いつの日かまたジンバブエを訪れたいとは常々思っていたものの、家族を持ち、日本の会社で働いていると、なかなか現地を訪問することは現実的ではなくなってしまっていた。それだけに、今回こうしてモリスと再会できたことは予想外の喜びとなり、身の回りの日々の慌ただしさに追われ、忘れかけていた大切なことを再び思い出させてもらう貴重な機会となった。

 彼の今回の来日が実現した背景には、ジンバブエ野球会関係者の多くの方々のご協力・ご支援があってのことと察します。

皆さんどうも有難うございました!!