事務局だより

伊藤益朗

 

●昨年12月17日から29日まで、ジンバブエを4名で訪問し、全国大会とナショナルチームキャンプを見てきました。昨年4月25日、突然来日されたジンバブエ野球協会会長のモーリス・バンダ氏宅でホームステイさせて頂き、大変お世話になりました。

 

●ジンバブエ野球協会の今後の計画に関して。前号でお伝えしました、「今年の3月にナショナルチーム全員を日本で1か月間練習参加させ、その帰り道に南アでの全国大会に特別参加するという計画は、野球レベルと資金面の両方で無理があるとの理由で中止になりました。その代わりに、①日本に毎年2~3人の選手かコーチを約1か月間招聘し、練習参加させる計画と、②JICA事務所の理解を頂きながら、シニア海外ボランティアがモーリス会長を支え、野球をしている6州に協力隊員を配する体制を目指して行くというものです。①に関しては、ジンバブエ野球会の皆様にご無理のない範囲でのご協力をお願いする次第です。②に関しては、JICAジンバブエ事務所での会談が、今後ジンバブエ野球が目指す方向を共有できたという意味で貴重な第一歩となりました。

 

●今年3月に1か月間の短期野球隊員が2人、ジンバブエに派遣され、田澤隊員と協力して普及活動に当たるそうです。

 

●来る2月20日(土)の冬の集いでは、昨年末にジンバブエ訪問されたヤングリーグ・姫路アイアンズヘッドコーチの大前健治さんに「ジンバブエで野球体験」と題してお話しして頂きます。詳しくは最終頁の案内をご覧ください。

 

●前回の「夏の集い」は、8月1日(土)に塚口さんさんタウン住宅集会室で22名の参加を頂き、開催しました。渡辺博さんの野球を通した熱い生き方が参加者の心に伝わるお話でした。

 

●「夏の集い」☆渡辺博さんのお話「私と野球」より。平成27年8月1日

 昭和25年9月に岐阜県各務原市で生まれました。両親は引揚者で、貧しい家でした。父は朝鮮鉄道に勤めていたのを引き揚げてきて国鉄に入るもランクを下げられたので3日でやめました。九州に働きに行き、3歳の時家族で九州に移り住みました。母は八幡製鉄でパートで働くようになりました。戸畑高校の練習をよく見ました。折れたバットをもらって帰りバットを振りました。小4で父は結核に。正月も下着だけで過ごしたことがありました。ここから抜け出すためにはプロ野球しかないと、重い石を遠くへ投げて鍛えていました。昭和39年7月に父が交通事故で亡くなりました。帰宅しても誰もいないし中学野球部でも貧しいため一人だけトレパンと運動靴で参加していたこともあり、退部。生活が乱れ、3年生では先生に「行ける高校はありません」と言われました。その時に岐阜南高校の野球部監督をしていた叔父に「野球やりたければ岐阜へ来い」と言われ岐阜へ。昭和40年1月、単身夢を抱いて祖母宅へ。しかし祖母からは一切優しい言葉はありませんでした。「否定されている」と感じました。自分の人格、立ち居振る舞いを直すということで箸の持ち方、偏食などを「今はいいけど50・60になった時・・」と直されました。野球に対しても優しい言葉はありませんでしたが、最後には「よう頑張ったよ」と言ってくれました。中学校の黒田先生は厳しく指導して下さった先生で、授業で発言する機会を与えたり、生徒会長に立候補させたりと、自信なく引っ込んでいた私を前に引き出して下さいました。そして、「公立高校いけるよ」と導いて下さいました。うれしかった。しかし高校は私立の岐阜南高校へ。厳しく長い練習でした。「為せば成る」のもと、夜の9時までのシートノックは厳しかったが、甲子園という目標があったので何でもできました。そして昭和43年、第50回夏の甲子園に出場。沖縄に逆転負け。あれ以来私が一番大切にしていることは「為せば成る、為さねばならぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」です。大学に入ったら、夜、上級生に急に集合させられ、説教をされる。理由もなく殴られる。1年間我慢したがこんなことに耐えられなくなって退学しました。社会人野球チームの中途採用を探しましたが、結局岐阜経済大に編入。部員15人でしたが、西濃運輸の林監督が練習試合をやってくれました。相手は捕手以外全員投手のメンバーでしたがコールド負け。それでも全国大会にも行きよく頑張っていました。昭和46年10月、鐘淵化学(カネカ)から「下手投げ投手を探している」と話があり、練習参加。シンカーとスライダーしかなかったのですが認められ、その日に筆記試験、採用と言われましたが、その時はお断りして帰りました。しかし、11月に入社。カネカでは人間形成の基本をすべて教えてもらいました。努力の大切さ、企業の野球部の在り方。昭和50年に日本選手権優勝をしましたが、翌年末に野球部は休部。その時のマネージャーとして、歴史あるものを片付けながら思い切り泣きました。その後大阪ガスにカネカから4人が移籍。強くする責任があると苦闘しましたが、なかなか他のメンバーに伝わらず昭和57年に引退しました。その後いろいろとあった中で長男が姫路アイアンズで野球をはじめ、チーム代表が空席の時に要請を受け、代表に。今はヤングリーグの専務理事を務めています。中学の硬式では3番目の規模で、177チーム加盟しています。子供たちのおかげでいろいろな経験や出会いをさせてもらっています。ラグビーの平尾さん「理不尽な指導に葛藤する中で人は鍛えられる」。中西太さん「食べさせろ。食べたものの3倍の力が出る」。山本一義さん「王さんは『私は場外へ打つつもりで振っています』と言っていた」など。私はコーチに「うまくなる技術を教えるな」「かつて自分自身が失敗したことを伝え、どうしろと伝えろ」と言っています。野球をするための心と体が大切です。私は鍛えられて成長したと考えています。夢は生きる力。目標は頑張れる力。野球は単なる楽しみではありません。私を応援してくれる人たちのためにも失敗してはいられません。カネカ野球部寮の名前、「克己寮」の「克己」を大切にしています。近年の家庭は、兄弟の少なさもあり教育不充分。アイアンズで「人のあるべき姿、ことばを伝える」ことが私の務めと信じてやっております。子供たちのために。

<渡辺さんの厳しい一生の歩みと熱い思いを聞かせて頂き、感動のひと時でした。>