事務局だより

伊藤益朗

 

皆様いつもジンバブエ野球会にご理解とご協力を頂きありがとうございます。

 

●私は関学大野球部コーチを昨年10月末で退任しました。4年間でした。結果としては大したことはできませんでしたが、自分なりにできることはやり通したと思っています。ある時期以降私は野球を、人とつながっていくための、又、育ち合うための道具と捉えて来ました。退任を機に関学高等部監督時代の現在50歳前後の野球部OBたちが集まってくれて、慰労会を開いてくれました。たくさんの思い出話に浸っていると、こんな私でも何某かの役に立てたのかも知れないと感じる至福の時間でした。この先そんなに多くの時間はないと考えますが、人を大切に思って行動し、幸せな空気をそこに作り上げることに一役買い、結果的にそれを広げる働きをしたいと強く思いました。今からでもできることはあると自分に強く命じました。

 

●また、昨年末、私の大学野球部同期生の澤田眞史氏が亡くなりました。彼には物事をはっきりと言い切る厳しい面がありました。私はべったり人と付き合い続けることは苦手で、一定の距離を置いていなければしんどくなる性格です。それでも何やかやと澤田君とのお付き合いは約50年続きました。昨年末、新たに関わることにしました武庫荘総合高校野球部の和歌山合宿に同行していたのですが、入院中だった澤田君から奥さんを通じて連絡が入りました。澤田君が「マスロウに会いたい」と言っているとのこと。私は電話口ですぐに「明日行きます」と伝え、次の日に合宿を抜けさせてもらって三田市の病院に駆け付けました。病室に入って声をかけると「マスロウ、長い間ありがとう。これが言いたかったんや」と声を絞り出すように語り掛けてくれました。自分の寿命を感じ取って、やり残したくないと気になっていたことだったのかもしれません。手を握ってその後しばらくの間互いの人生を確かめ合って時間が流れました。彼が続けていたという日記の最後のページに奥さんに対する感謝のことばとまた会いましょうというメッセージが書かれているのを奥さんから見せて頂きました。また、私がいる間にも何度か痛みで顔をしかめている時がありましたが、うめくこともせず、静かに耐えていました。これらすべての彼の姿が、隣人を思う彼のやさしさを表していました。2時間ほどご家族が集まっている病室にいて、私は合宿に戻って行きました。57時間後、彼は亡くなりました。私が合宿から帰宅して3時間後のことでした。

 

●2016年後半の動きについては、前記の正岡康子さんの「ジンバブエの動き 2016/8 ~ (モリス、アメリコとのやり取りを中心に)」をご一覧下さい。

 

●来る2月12日(日)の冬の集いでは、昨年11月に任期を終えて帰国されました前ジンバブエ野球隊員の田澤佑太郎さんに、最新のジンバブエ情報を語って頂きます。詳しくは最終面をご覧ください。

●前回の「夏の集い」は、8月11日(祝)に塚口さんさんタウン住宅集会室で26名の参加を頂き、開催しました。今年の3月末にシニア海外ボランティアとしてタンザニアに派遣される予定の岩崎広貴さんの温かい高校教師として、更に厳しい高校野球指導者としての豊かな人生経験を語って頂き和やかな時間を共にすることが出来ました。

 

●「夏の集い」平成28年8月11日

岩崎広貴さん(前尼崎産業高校・尼崎双星高校野球部監督)のお話

「イワサキワールド」より

私は、尼崎北高校から立命館大学と野球部に在籍し、社会人野球も経験後、退社。その後さまざまな仕事を経験しましたがどれも続かず、また、府警に願書を出した時には試験日を忘れてしまったこともありました。そんな途方に暮れている時に「金八先生」や「太陽にほえろ」などのTVを観て、教師になろうと決心し、勉強して合格しました。1981年、赴任高校は、尼崎産業高校。今よりずっといろいろな生徒がいて、ロングスカートの女子、4人に一人は母子家庭、二人に一人は授業料免除の生徒たちでしたが、人懐っこく私にもなついてくれました。「先生、私何食べたらええ?」とか言ってこられて、私は「この仕事やったら出来るわ」と感じました。家出する子がいたり、遅刻欠席をさせないように若かった私は毎朝たたき起こしに家を回ったものでした。教師は、育てる者というより育てられる者で、私にとってはそんな初めの3年間の経験が大きかったと思っています。

野球部では定年以後も延長しての65歳まで野球部監督を続け、一昨年夏の大会を最後に教え子の後輩教師に譲り、退任しました。前半20年はがむしゃらにやってきましたが、後半は細かいことにも注目して野球指導をするようになりました。「生徒がいるから我々も野球に熱中できる」ことに気付いたのもこの頃でした。夏にベスト8まで進んだ年のチームのバッテリーは共に父親の顔を知らないという二人。一人は見ると乱暴そうに見えるのですが下級生にやさしく、試合でエラーをされても嫌な顔をしません。もう一人のお母さんはかつて自分の教え子だったのですが、「息子がガツガツご飯を食べてるのを見ながらビール飲んでる時が一番嬉しい」と言っていました。また、2012年春に尼崎産業高と尼崎東高の合併があり、夏の大会は新しい双星高校に入学した1年生を含め、3校の合同チームでした。メンバー構成は一人の東高出身者以外は全員産業高の生徒たちでした。2回戦の有馬高校戦は苦戦でした。1対3で9回1アウト走者なしで、その一人だけの東高出身の選手を代打に送ると粘った末に四球を獲得しました。これをきっかけに残りの産業高メンバーが続き逆転勝利することが出来ました。この時の東高メンバーの四球でチームに一体感が生まれ、結局5勝し、この年もベスト8となったことは強く記憶に残っています。

[質疑応答]

<Sさんから>私が関わっていました関学高とは年に3~4回練習ゲームをしていました。元関学高監督の伊藤さんも岩崎さんのチームのコーチをしておられ兄弟のような存在でした。タンザニアでも岩崎さんらしさを武器に頑張ってきてください。

<Kさんから>生徒が卒業するとき、卒業生に最後に何を言われていますか。

「人生一勝一敗やで」。勝ち組負け組という嫌な言葉がありますが、「負け組でも幸せな負け組になれよ」と言っています。

<岩崎流指導>10種類以上のバッティングメニュー。本を読ませるなど多岐にわたります。

 

●尼崎市と実行委員会の協賛で開かれた講座「みんなのサマセミ」で、正岡さんが「ジンバブエ野球支援」に関して紹介して下さいました。(8月7日(日)14:40~15:30、百合学院)

 

●ジンバブエから帰国された田澤佑太郎君からは、2年間の任務を全うされた成長と自信が窺えました。ジンバブエ野球の歴史を卒論のテーマに選んだ山下貴史君からは、何にでも興味津々の瑞々しい活力を感じました。