事務局だより

伊藤益朗

 

皆様いつもジンバブエ野球会にご理解とご協力を頂きありがとうございます。

 

●3月27日にシニア海外ボランティア野球指導でタンザニアに赴任された岩崎広貴さんは元気に活動を開始され、6月からは国内を回って代表メンバーの発掘などもされているようです。ジンバブエ野球会は岩崎さんの活動を心から応援しているのですが、財政的支援は厳しいというのが現状です。年会費などの収入が一進一退の中で、支援を優先しているジンバブエでの活動が昨年から活発化したため財政面でタンザニアにまで手が回らないためです。岩崎さんは渡航される前から、先進国からの財政面や道具類の支援に頼りすぎない、その国の人達自身の手でできる方法を探っていきたいと言っておられました。P7の写真にあります長い塩ビパイプによるスイングなども一例です。しかしタンザニアと岩崎さんへの支援も野球会の目的範囲を超えてはいませんので、今後可能なことは支援していこうと考えています。

 

●ドリームカップは2017年2月にハラレで開催され、ハラレAチームが優勝しました。大会で優秀な選手を選抜し、代表チームを編成、合宿を経て、南アの州対抗全国大会に参加しました。南アでは銅メダル獲得。2004年に来日したジンバブエメンバーのラブジョイ氏(南ア在住)が物心両面だけに留まらずプレーでも全試合に捕手として支えてくれたとのこと、嬉しいことでした。大きな力になったことでしょう。

 

●2017年4月、モーリス会長から「ジンバブエ野球協会(ZBA)が世界野球ソフトボール連盟(WBSC)から遂に認められました!」と喜びの連絡が入りました。

 

●最近ご支援を頂いた方から順に遡って約160名の会員の皆さんに対し、ジンバブエから絵葉書が届いたかと思います。野球協会会長のモーリス氏が写真編集してはがきを作成し、約90名のドリームカップ参加選手たちが手書きで皆さんへのメッセージを書きました。ジンバブエの選手たちを身近に感じて頂ければ嬉しく思います。(P7)

 

●来る8月19日(土)の夏の集いでは、約20年前に青年海外協力隊野球隊員としてジンバブエで3年間を過ごされた木戸孝太郎さんに、その後と現在のこと、また、その3年間の意味などについて語って頂きます。詳しくは最終面をご覧ください。

 

●前回の「冬の集い」は、2月12日(日)に塚口さんさんタウン住宅集会室で19名の参加を頂き、開催しました。昨年11月までの2年間、ジンバブエで野球指導に尽力頂いた田澤佑太郎さんに最新のジンバブエのお話をして頂き、参加者一同ジンバブエの空気を感じ取ることが出来ました。田澤さんは続いて、青年海外協力隊員としてボリビアに派遣されることが決まったとのことでした。今後のご活躍もお祈りしています。

 

●「冬の集い」平成29年2月12日

田澤佑太郎さん(前青年海外協力隊ジンバブエ野球隊員[平成26年2次隊])のお話

「ジンバブエでの活動報告」より

 私の姉も海外志向があり、外大に進学していたこともあり、私も海外が身近にありました。大学卒業後に中南米に留学し、帰国後就職しましたが、中南米に友人もいて、中南米しかもスペイン語圏に行きたいなと考えていました。そんな時に、JICAのことが目に留まり調べてみると、協力隊は帰国後お金も貯まり、プラス野球もできるという。それならダメ元で受験したところ、合格。しかし任地はケニア。「ケニアか」というのが本音でしたが、行くことを決意し、研修へ行ったところ、「いたって意識の低い私」に気付き、場違いな所に来てしまったと落ち込むことがよくありました。研修の半分が過ぎたころケニア情勢が悪化し、他の4名と共にケニア派遣が中止になり、1か月遅れてジンバブエ派遣に振り替えられました。

 ジンバブエでの生活:ハラレの第一印象は、整備されている道、ビルなどイメージと全く違っていましたが、一歩郊外に出るとようすは一変しました。学校では屋外でも授業、午前午後の二部制もあり、電気はつけません。

 移動手段はコンビ(50セント~1ドルでどこでも乗り降り可、ルート変更も可、4人シート×4列[MAXで21人])の他、タクシー、長距離バス、飛行機(首都ハラレとブラワヨかビクトリアフォールズ間のみ)。車は日本の中古車ばかり(特にコンビ)。

 食事はサザ(トウモロコシの粉を練ったもの)かライスが主食。朝食はパン+ピーナッツバターもよくありました。

 通貨:ジンバブエドルは目にしなくなりました(2015年に正式廃止)。札はUSドルで硬貨は南アランド(ボツワナプラ硬貨や中国元も)。現在はドルの他、政府発行のボンドノート(札)、ボンドコインが使用されていますが、ボンドノートはATMで引き出せず、銀行に長蛇の列が出来ています。(3時間)

 治安は安定していましたが、最後の数カ月は不安定でした。

 活動はハラレメトロポリタン野球協会(HMBA)に派遣されて首都の野球に関わっていましたが、途中から国全体のジンバブエ野球協会(ZBA)へ派遣先を変更してもらい、活動しやすくなりました。カウンターパートはウィンモア氏(HMBA)とイノセント氏(ZBA)。

 ジンバブエ内で野球が盛んな地域は、ハラレ、ブラワヨ、マニカランド、ミッドランド。それほどでない地域は、マショナランドウェスト、マシンゴ。

 野球の第一印象:過去の日本人指導の影響あり。良い意味では、ウォームアップやクールダウン、挨拶、バックアップなど。悪い意味では、援助への依存心、10年以上前の栄光を未だに引きずっているなど。

 主な活動:市内小学校、高校の巡回指導。(平日)

      クラブ、州チーム指導(休日)

      高校生学校外指導、教員養成校で、地方巡回など。

      小学校では楽しいと思ってもらえる指導を。高校では基礎+実戦で時に座学も。

巡回での悩み:道具の不足、参加人数、巡回頻度、協会サポート、継続性などの問題。

        手伝いの男性が遅刻や無断欠席、また、カウンターパートとの関係不調。

シニアチームには、高いレベルを求めました。同チームでの悩みは、自尊心と年功序列。

2016年には教員養成校で指導、キックベースも実施しました。

ナショナルチーム:2015年12月に結成。翌3月の南アインタープロビンシャル大会参加。

モーリス会長は指導力がある人。

道具寄付:JICAの世界の笑顔プロジェクトなどを活用。

約一カ月の短期隊員が来た時に地方訪問も:一人ではできない練習が出来、助けられた。

活動について:徹底していたこと①時間厳守、②きびきび動く、③人の目を見る。

学生の野球を除けば、時間は守られていた。罰もあったが学習していき効果があったのは嬉しかった。

 

<振り返って>

生活:素晴らしい気候、穏やかな人々、安全な街、快適でした。

活動:特に対協会で問題が多く、不完全でした。

主に悩んだ点:①巡回指導の難しさ。②普及なのか強化なのか。③配属先との関係。④日本人として教えるべきこと(文化の違い)。

後悔:協会に対して意見、提案するのが早すぎた。協会との関係修復に全力を注げなかった。

任地(ハラレ)・地方と手広く活動したことですべてが中途半端になった面があった。しかし、一人でも多くの人に知ってもらった面もあり。目を輝かせて取組む選手たちに力をもらった。

2年間での自分の変化:意見を言えるようになった。怒れるようになった。環境によって柔軟に対応できるようになった。子どもが好きになった。

成果:Tボールを作った。T用ネットを作った。

結論:楽しかった。協会にも感謝。昨日JICAから協力隊合格の通知を頂き10月からボリビアに再度行ってきます。

 

<質疑>

・私は一昨年末にジンバブエに行き、ファールボールをすぐにとりに行くよう指導してきましたが、今はどうなっていますか。⇒はい、攻撃側がしています。

・女子のスポーツ参加への意識は?⇒割に女性も全員参加のようになっている。クラブチームにも女子ソフトがあり、男女一緒にもやっています。

・大人の反応は?⇒大人は聞いてくれないことが多いので、私としては「大人はいいや」という気持ちでした。

・WBCに出てくる国いなかったが、アフリカ内の国同士のつながりは?⇒ない。隊員同士はありました。

・現地コーチの質は?⇒経験者ではあるが選手が卒業してすぐコーチになっていたりもしていました。

・配属先(ハラレからジンバブエ)変更について⇒配置替え提案はJICAジンバブエからありました。スポーツを通した青少年教育という視点でした。

・エイズ教育と野球普及の一体活動は今もやっていましたか?⇒なくなっていました。

・テレビで野球は映っていますか?⇒テレビは1~2チャンネルで、店で観ることのできるケーブルテレビではサッカーを放映していました。

 

●尼崎市と実行委員会の協賛で開かれる講座「みんなのサマセミ」で、正岡さんが次の2つを紹介されます。

8月6日(日)、尼崎双星高校(〒661-0983尼崎市口田中2-8-1)にて。

11時50分~12時40分:「ジンバブエ野球会」

14時50分~15時40分:「尼崎城・尼崎藩・すごい尼崎」

ご都合のつく方は是非おいでください。