事務局だより

伊藤益朗

 

団塊の世代である私もまさに定年前の年代。何か急にこうなったように感じます。若い時は何でも出来るような気がしていましたが、永年一つの職業を続けてきますと、自分独特の色がついていることに気づくとともに、簡単に生活を変えることがいかに難しいかも思い知らされます。残り少なくなってきた人生を、悔いなく美しく生きたいと切に思いますが、これからは若い人のエネルギーにも励まされて、力を得る必要があると感じています。

●雑誌「野球小僧」8月号で、シェパード選手が6頁にわたって特集されました。以下は、ジンバブエと同国野球の厳しい状況が紹介されたあとの彼の言葉です。私たちも勇気付けられる言葉でした。

「僕は今、お金を頂きながら、野球を上達させてもらっている人間です。(略) けっして多くはないのかもしれないけれど、 僕自身が日本で生きていくには、不足のない金額です。でもお金の多い少ないなんて二の次。『野球で得たお金』という事実が、自分自身に対する、強烈な支えと喜びになっているんです」

「このシャツだって『僕が自分の力で買ったシャツなんだ』と思うと、毎日袖を通すたびに幸せな気分になれるんだ(略)」

「(略)このリーグで3、4年頑張って、力をつけて、日本のプロ野球の世界に飛び込むことかな。その夢がかなったならば、自分のサラリーでできる範囲で、ジンバブエ野球の環境改善に役立てたい。日本にお世話になり続けた野球道具の援助も今度は僕がしてあげられればと思う。将来は球場も建ててあげられればなあ・・・。(略) 仮に僕がプロになれなくても、日本で会得した技術や練習法、体験は必ずジンバブエ野球の糧となると思う。(略)」

「時々、自分が50歳くらいになったときのことを空想してみるんです。空想の中の自分は、いつだってこのオリーブスタジアムのような立派な球場のスタンドに座ってる。でも、それはジンバブエにある野球場」

「そこで太陽を浴びながら、のんびり少年野球を観戦してる。フィールドでプレーしてるジンバブエの子どもたちの表情はすごくいきいきしてて、野球を心から楽しんでる。もう最高の空想物語」

 

●ジンバブエ野球協会会長にマンディ氏に代わって、ブラワヨ在住のモリス氏(次頁写真)が就任。多難な時代の舵取りを任されました。モリス会長は活動資金がなく、大変苦労されている模様です。ケニアで開催された委員会では、航空運賃しか支給されなかったため、ナイロビの路上で夜を過ごされたということです。

 

●ジンバブエに村井氏も協力隊の野球隊員も居なくなって1年余りが過ぎ、国外からお金の面で支援したり、野球場を管理したり、大会を開いたりすることが、相当困難であることが分かってきました。日本にいる私たちは何もしないより、少し位無駄な使い方をされてもお金や物を送って、野球を通しての絆を保っていきたい、ジンバブエの野球存続のために何がしかの役に立ちたいと思うものです。具体的には、野球場の管理存続、ナショナルチーム支援と子供の野球存続、野球協会活動支援を柱にすべきと考えます。しかし一方で、まず、送金できないこと、送金しても実質レートとかけ離れた公定レートでしか引き出せないばかりでなく、それを引き受けて管理する人が見つからないこと、ジンバブエの人では多くのUSドルを持つこと自体が危険なことなど、やはり今のジンバブエは海外からの協力を得るにも本当に困難な状況にあると言えます。

こんな状況で、どのような支援が出来るか、世話人らを中心に話し合いを始めています。モリス新会長は今までのところ定期的に南アに行っているようで、その機会を使って村井さんから、よく吟味して必要なお金などをその都度渡すようにしてはどうか。また、お金や物を送るという直接支援が難しい中、ジンバブエ野球の自力発展をにらんで、シェパードの四国リーグ入りのような間接支援も探っていくつもりです。