厳しい現実のおかげで強くなった選手たち

根岸勇二(元ブラワヨ野球隊員・99年4月~01年4月)

 

去る2月、約5年ぶりにジンバブエに行ってきました。懐かしさに浸る間もなく、入国手続きでは職員が壁に張ってある紙を覗き込み、「んー、あなたカテゴリーBだからなんとかOKね、危なかったわね。」と僕に言った。おそらく金をむしり取ろうという新手の詐欺だったのだろうが、せめてPCを覗くぐらいはしてほしかった…。

街に着き宿を取ると、「よし、誰に最初に出くわすか歩いてみよう。」と僕は街を歩き始めた。協力隊時代、街中はほとんど自転車を使った僕だが、嬉しくて懐かしくてとにかく歩いた。結局誰にも会えなかったが、雨季の午後の、あのけだるい空気が心地よく、楽しい散歩だった。

翌日も懲りずに朝から歩いていると、ついに見覚えのある顔が…。モリスだ。ブラワヨ野球のチェアマン、今やジンバブエ野球のプレジデントとなった男。やはりこの男か、といった感じだった。彼は僕より若いのにとてもしっかりしていて、決してかわいくはないが頼りになる男。今は大学に通いつつ縫製の仕事をしている。シェパードの件でも村井さんとのパイプ役として奔走していた。自分の生活を多少犠牲にしつつ、これだけ長く野球界を支える彼に改めて感心した。

3日目からは黒人居住区にある、ナショナルチームの選手、ラブジョイの家に泊めてもらった。今さら観光をする気もなく、毎日選手に会いに外へ出た。毎週土曜日は、学校のグラウンドに練習を見に行った。来ていたのは10人弱。5年前、6チームのクラブチームが存在し、それぞれリトルリーグチームも持っていた頃と比べると、この現状は少し残念だったが、ある程度想像出来ていた。ただ、5年前には目立たなかった選手がかなり上達していて驚いた。

土・日だけでも地道に練習すればうまくなる。やはりアフリカ人の上達は日本人より早いかもしれない。

もちろんシェパードもしっかり練習していた。ただ、今の彼には小さ過ぎるグラウンドや、人数不足などの問題は、日本でのキャンプを控えた選手にとっての環境ではなかった。硬球は2球しかなく、ホームランを打てばなくなってしまうため、僕は彼らに利き腕と逆の打席に入ってもらい試合形式の練習を行った。

少しはジンバブエ野球の力になろうと、ブラワヨの有力新聞社にシェパード、モリスを連れて行った。そして顔見知りの記者が快く「シェパード、日本野球のセミプロへ!」の記事を載せてくれた。その横には、なんと「オリーブガイナーズの代表責任者、ユージ・ネギスギ」の写真が…。タンクトップ姿のありえない代表者だったが、誰かがこれを見て、「野球でお金が稼げるのか!」と野球を始めるきっかけにしてくれればいい。

ほぼ3週間、毎日誰か懐かしの顔に会うため歩い た。そして帰国前日、もっとも会いたかった選手のひとり、リロイの家を訪ねた。あの南ア遠征で失踪したキャッチャーだ。彼は僕を見ると驚き、申し訳なさそうな顔をした。実はその前に街で会う約束をしていたが彼は来ず、どうやら僕に怒られると思い逃げ回っていたようだ。僕は「おいおい、俺は怒ってないぞ。もしミスター村井の立場だったらそうはいかないけど。」と言った。彼は自分の取った行動を反省しており、「野球にはもう復帰できない。キャッチボールぐらいはたまにするけど…。」と言っていた。残念ではあるが、選手とはうまくいっているようだし、大人になったリロイに会えてよかった。

最終日、ラブジョイの車で空港に向かう途中、ジンバブエの悲惨な現状に直面した。警察が車を止め、スピード違反も何もしていないのに「300,000Zドル(約240円)払え。」と言うのだ。ラブジョイが僕にお金を貸してくれと言うので「何もやってないんだから払わなくていいだろ。」と言うと、「いや、払わないと車を没収されちゃうんだよ。。。」と言う。今のジンバブエではよくある警察の小遣い稼ぎだそうだ。ただ従うのは悔しいので、僕はもしものために日本から持ってきた「さいたま親善大使」の名刺をちらつかせ、「私は大使だ。払ってもいいが大使館の方に連絡を取ってみるからキミの名前だけ教えてくれるかい?」と言った。すると「いやいや、もういいんだ、行ってくれ。」とヤツは引き下がった。埼玉県からもらった名刺がついに役に立った瞬間だった。ちなみにこの日も僕はタンクトップを着ていた…。

涙でジンバを離れ、乗り継ぎのヨハネスバーグ空港にはなんとジョージが来てくれた。ナショナルチームのショート、マンディの後継者、ジョージだ。協力隊での2年間、練習後に居残りノックを申し出た唯一の選手。打撃好きが多いジンバブエでは珍しい、自分のフィールディングにプライドを持つ男。彼は2004年の日本遠征の前にナショナルチームを離れ、南アで働くことを選んだ。難しい決断だったが、家族のために働かなければならなかった。現在はファストフード店で会計の仕事をしているそうだ。「次はマネジメントの勉強をしたいんだ。」と言う彼は、あのヤンチャな中学生時代からは想像できないほど成長していた。ただグローブだけは南アに持ってきているようで、まだ野球小僧でいてくれていることが嬉しかった。

そんなこんなで三週間はあっという間だった。ジンバブエは確かに5年前より元気がなかった。商品が揃っているのは大型スーパーだけで、最高額紙幣がインフレについていけず、レジでは店員が100枚以上の紙幣を数えているため長蛇の列。ガソリンがないからバスも少なく長蛇の列。ラブジョイ家では停電が頻繁に起こり、ろうそくの火で電力の復旧を待つ。ラブジョイは車の盗難を恐れ毎晩車内で眠る。そして主食のサザでさえ隣国から闇で買ってくるという状況。ただ、子ども達は遅くまで裸足で近所を走り回り、母親に買い物を頼まれると文句も言わずにダッシュで家を出る。サッカーのテレビ放送があれば、年齢関係なく隣近所で集まって盛り上がる。毎日のように子どもが何かの事件に巻き込まれ、親が子どもを学校に送り迎えせざるをえない今の日本と比べると、どっちの未来が明るいのか僕は分からなくなった。

10年後、政治さえ元に戻ればジンバブエは復活すると思う。劇的な経済成長ではなく、ただ元に戻るだけ。

帰り際、選手達には「次会えるのは俺が60才でリタイアした後かな。」とカッコつけたが、僕にはそんなに待てないような気がする。 

(06年6月記)