友人を偲び

村井洋介

 

 2004年10月、ジンバブエ野球ナショナルチームが関西学院大学にご招待頂き来日した際に同遠征の団長を務めてもらったピーター・ムルコ氏が今年の3月末に逝去された。

 ピーターとはマンディショナ・ムタサ元ジンバブエ野球協会会長を通じて知り合ったのだが、彼は会長のマンディをサポートをするという立ち位置ではなく、マンディの友人でありアドバイザーであるといったような関係であった。

 また、ピーターとスポーツとの繋がりは、パラリンピック・陸上男子100m走のアフリカチャンピオン(ジンバブエ人、オールアフリカゲームズ金メダリスト)を国内で色々とサポートしていたと記憶している。

 いつも穏やかな笑顔と優しい口調の彼とはよくアフリカの若者のモノの考え方や、アフリカ人の部族に対する思い、そしてそれらがどの様にスポーツに影響したりするかなどの話しをした。話をする場所は決まってドリームパークからほど近いサモラマシャル・アベニューの旧ホリデーインホテルの向かいにあるコーヒーショップで、いつも練習後の数時間は話をしていた。

 当時のジンバブエの若者は野球選手に限らず多くがリーダーシップを発揮してみんなを引っ張っていくという感じではなく、誰かがやってくれるだろうからそれについて行くという雰囲気であった。その一方で現実味の乏しい理想を口にする。良く言えば「素直で従順で大きな夢を持っている」ということだが…ピーターは私の感じていたことを否定するどころか、どちらかと言えば肯定していた。ただ、それは私の考えとは根底が違う、日本人の私には解らないジンバブエ人でありアフリカ人であるからこそ解る血を持った上での肯定で、彼は若者達がそれらを解決することを心から望んでいた。

 そんな彼だから、ときに野球関係者には反発してくることもあった野球選手達が、落ち着いた諭す様な口調の彼の言葉を神妙に聞く姿が見られた。よって直接野球とは関わりが薄かったものの、ジンバブエグループの纏め役として日本遠征の団長をお願いし、そして彼はその役目をキッチリと果たしてくれた。

 

 日本に戻り3年目、アフリカ大陸を離れて7年が過ぎた。色々な事が起きる…

 思い起こせばアフリカでは「死」というものが生活の身近なところに位置していたと思うし、日本での何倍も「死」という現実に直面する機会が多かったと思う。

 友人、友人の親族、仕事を通じた知り合い、野球関係者など、多くの葬儀に出席した。アフリカで初めての葬儀出席の際に、家に戻って葬儀衣装に着替えようとした私は友人にそれを止められた。理由は訃報を聞き、取るものもとりあえず駆けつけた事が大事であり、服装や香典といったものは重要ではないということであった。つまり逆に普段着で行った方が良いのである。アフリカの葬儀では大勢が死者を追悼する、泣き、踊り、食べ、話すのである。

 驚いたのは、そこそこの方の葬式には「泣き屋さん」と呼ばれる人たちも参加する。普通にお喋りをしながら来た泣き屋さん(おばちゃん達)がお葬式会場に入った途端、そこにいる間中大泣きに泣いて、人々の悲しみを倍増、代弁し、葬儀が終わると何事もなかったかのように普通に帰って行った光景を何度か見た。

日本ではなんとなく「死」が隠された感や遠い感じがするが、今思えばアフリカでは物凄く近く感じていた様な気がする。数が多かったせいかもしれないが…友達の死は悲しい…

 ピーターの御冥福を御祈りする。