戻りました

村井洋介

 

昨年末、日本に戻りました。

 

 

 1992年7月から青年海外協力隊で派遣されたジンバブエに13年、南アフリカに5年、そして最後は英国に4年のトータル22年間の海外生活でした。

その間、多くの方々に出会い、沢山の貴重な経験をさせ

て頂きました。正直に申し上げて、ジンバブエのドリームパークで野球をしていたことやオールアフリカンゲームに参加したことが、もう遥か昔のことのように思えてしまいます。

1995年にはアフリカでも携帯電話が普及を始め、1996年にはインターネット、衛星放送もスタートしていましたから、アフリカに居ても世界中の情報がリアルタイムに入手可能でしたから、浦島太郎にはなりませんでしたけれど・・・

 

 さてご承知かとは思いますが、私は2001年からは日本企業の現地採用でアフリカでの事業開発担当になりました。よって主にビジネスの出張ではありますが、アフリカ大陸54ヶ国中の27ヶ国を訪問し、東西南北様々なアフリカを体験することが出来ました。以前、「ジンバブエの風」にて”アフリカのとても素晴らしい処”をご紹介させて頂きましたが、今回はアフリカ好きの皆様に、私の個人的に思い出に残るちょっと大変だったアフリカ体験を紹介させて頂こうと思います。

 

~アルジェリアの巻~

アルジェリアへは鉄鉱山の視察で訪問したのですが、その鉄鉱山はサハラ砂漠の真っ只中にあり、昼間は50℃を超える砂漠の道無き道を何時間も掛けて車で向かいました。「車が故障したらどうなるのだろう。」という不安、砂漠の民とラクダの群れ、私には美味しくなかった食事(特に歓迎の為に振る舞われた絞りたての常温ラクダミルクとほとんど味の無い羊の丸焼きは辛かった・・・)、しかし砂漠の中を走る鉄鉱石を運ぶ長さ1kmにもなろうかという鉄道は圧巻でした。

 

~マダガスカルの巻~

マダガスカルへはアルミニウムの原料であるボーキサイト鉱山の視察で島の南部にあるポート・ドルフィンという港町を訪問しました。首都のアンタナナリボは標高1200メートルにある高原都市で快適ですが、この港町はド田舎でした。しかしエメラルドグリーンの海はどこまでも美しく、山側には固有種のキツネザル達が生息しています。私たちには海に面したロッジが用意されていたのですが、これが後に大変な一夜を過ごす事になります。夕食が終わり部屋に戻る前に扇風機を持って行くのですが、実はそのロッジの電源はディーゼル自家発電なのですが、10時にストップ、つまり電気の無いところに扇風機は無用の長物、部屋の外にはマラリア蚊が飛び交うので窓は開けられず、40℃近い真っ暗な部屋の中で汗だくでカブトムシ程の大きさのゴキブリに怯えて夜が明けるのを待った、アフリカで2番目に長い夜でした。

 

~シエラレオネの巻~

シエラレオネへは石油・天然ガスの調査で訪問しました。訪問先は首都のフリータウンでしたが、先の内戦で幹線道路が破壊されてしまったため、空港から市街地までは陸路ではなく海路での移動となります。空港近くの砂浜に浮かぶプラスチックの桟橋から早い者勝ちで海上タクシーなる漁船ほどのボートに乗り込みます。一応ライフジャケットはありますが(噂ではサメがいっぱい居る)、穏やかではない波の立つ湾を約45分程掛けて横断します。また町で一番のホテルに泊まりましたが、部屋には蚊が飛び交っているのでテレビが見えない二重の蚊帳の中、冷房を最下限に設定した部屋で過ごしました。

 

その他にもナイジェリア、コンゴ民主主義共和国、ブルキナファソ、コートジボアール、チュニジアなどなどでも大変だったことは数え上げればキリがありませんが、それらもまたなにかの機会に御報告させて頂きます。

 

最後にわたくし事ですが、日本に戻り、海外で日本の常識が通用しなかったように、海外では当たり前のことが当たり前ではない日本の生活に感動すら覚える今日この頃です。とはいえ私の場合は27年間日本で生まれ育った訳ですから、日本の暮らしはいたって快適ですが、初めて日本で暮らすことになった家族にとっては大変なチャレンジの毎日です。つきましては今後共引き続き宜しくご指導ご教示の程、お願い申し上げます。