現地での活動を終えて

元青年海外協力隊員 伊東英治

 

 私は青年海外協力隊野球隊員として平成9年12月より平成11年4月までの1年4カ月間ジンバブエにて野球普及の活動をさせていただきました。

 私自身の活動を振り返りつつジンバブエの野球普及の現況そしてこの間に感じたことなどを書かせていただきます。

○ジンバブエの野球について

初代野球隊員の村井氏が平成4年にジンバブエに赴任し、野球・ソフトボール普及活動を開始以来、約7年が経過しようとしています。

 この間、協力隊員のみならず野球・ソフトボールを愛するたくさんの方々の熱い思いが結集し、BASEBALLの魅力に取りつかれたジンバブエ人野球バカ達の熱意とあいまって、7年前は一部の金持ち白人たちの間にしか存在しなかったBASEBALLが現在では大都市を中心にたくさんの人々によって愛されるポピュラーなスポーツに育ちつつあります。

 私のいたこの国第二の都市ブラワヨを例にあげますと、現在ではプライマリースクール(日本の小学校にあたる)約67校(約80校中)、セカンダリースクール(中学高校にあたる)約20校(約40校中)が野球を取り入れています。大人のクラブチームによる地域リーグ戦も盛んに行われています。

普及がここまで進んで来たのは文字通り開拓者として学校レベルから地道に野球・ソフトの普及活動を続けて来た方々の熱い思いとご苦労の賜物と改めて敬意を表したいと思います。

初代の村井氏より7年が経過し、野球がここまで普及してきた

現在、日本人のサポートの在り方も徐々に変わりつつあります。

 ジンバブエ人に野球というスポーツのイメージがほとんどなかった時代には、日本人が前面に立ち、強力なリーダーシップを発揮して、グイグイと引っ張ってきました。

 普及がここまで進んできた今の状況にあっては徐々に現地人リーダーが前面にでてどんどん引っ張り、日本人は後方から的確なアドバイスをしつつリード・サポートしていくという形になりつつあると思います。

 うれしいことに、ジンバブエの野球を発展させていこうという熱い思いを抱いた現地人の素晴らしいリーダーが各地で育ちつつあり、また、野球の魅力に取り付かれたたくさんの野球バカ達も各地で脈々とプレーを続けています。

 主役はいうまでもなくジンバブエ人。リンカーン大統領の言葉ではありませんが、「ジンバブエ人の、ジンバブエ人による、ジンバブエ人のための野球」です。

 ジンバブエ人にとって全く新しいスポーツであったBASEBALLが定着し、完全に彼らのものになっていくのにはまだまだ時間がかかるかもしれませんが、少しづつ着実に前進していることだけは間違いありません。

○ジンバブエの野球のメッカ「ハラレドリームパーク」

 毎週末にはハラレはいうまでもなく、周辺都市からも野球・ソフトボールにとりつかれたやつらが続々と「ハラレドリームパーク」へと集まって来ます。プライマリースクール(小学校)からナショナルチームまで、熱戦がここドリームパークで繰り広げられています。

 彼らにとってそこは夢の球場。普段は家の近くのボコボコでイレギュラーバウンド続出の大地で、裸足でボールを追いかけている彼らにとって、グリーンの芝生、バックネット、マウンド、フェンス、ダグアウト等が完備されているあのドリームパークで思いっきり打って、投げて、走ることができるというのはまさに夢なのです。

私の任地であったブラワヨの野球選手も、「たくさん練習して上手くなって代表チームに選ばれれば首都ハラレに行ってあの球場でプレーできる」ということが、本当に良い動機づけ、目標となっています。

 たくさんの方々の夢や思いがこめられたドリームパークを舞台に、デッカイ夢をもったジンバブエ人プレーヤーによって彼らの野球の歴史が重ねられていく。なんだかワクワクしてきます。

 この先も、ジンバブエ人の野球のメッカとして、彼らによって様々なドラマが繰り広げられていくことでしょう。

 私も短い期間ではありましたがジンバブエの野球普及活動に携わる機会をいただいたものとしてこれからも微力ながらなんらかの形でジンバブエ野球・ソフトボールのためになることを続けて行きたいと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。

 最後になりましたが野球隊員として平成8年7月より平成10年12月までジンバブエにて活動され、この4月に亡くなられた後藤理さんのご冥福をお祈り申し上げます。

☆国際大会情報

オールアフリカゲーム(兼シドニー五輪地区予選)に参加します。

9月9日~18日 南アフリカ共和国 ヨハネスブルグにて

 

※優勝国はオセアニア地区代表国(開催国オーストラリア以外)との間で、オセアニア・アフリカ地区代表の座を争う。