ジンバブエに野球場をつくる

 伊藤益朗

 

 私にとっての野球の始まり、それは小さい頃沢山あった原っぱでの三角ベ-スや、柔らかいボ-ルを素手で打つワンバン野球であった。

 原っぱは、よく使われているところと人が近道で通るところだけ土が見えていて、あとは雑草が生えていた。たまたま落ちていたボ-ル紙や抜いた草の株をベ-スにする。原っぱを飛び出してしまうような大きな当たりだと却ってアウトになり、もっと大きく打ってよその家に入れてしまうといきなりチェンジになるなどという原っぱごとの特別ル-ルがあった。

 小学校の校庭も思い出す。休み時間に隣の組へ行って試合をすることを決めておく。授業が終るとみんな一旦家に帰り、野球道具をもって急いで学校へ戻ってくる。グラブにバットを突っ込んで肩に担いでくる者、自転車の後輪の横にバットを挟んでやって来る者。少し本式にやろうとする時は、やかんの水でバッタ-ボックスやキャッチャ-ボックスを描き、ホ-ムベ-スからレフトとライトにラインを延ばす。それだけで嬉しくなったものだった。

 

 そんな子供だけの野球にも、私の父は仕事をやり繰りしては単車に乗ってやってきて、校舎の陰から私たちを見ていた。夕暮れの校庭と父の姿は私の野球の原風景となって、今も心に深く焼き付いている。

 

 その後40年足らず、モグラが地を這うように野球を続けてきた。44才でパッと地上に出てみたら、「ジンバブエに野球場を造る」という地点に来ていたことに自分でも驚いた。

 ジンバブエ夢球場の計画は当初、国際交流、ましてや国際援助を目的としたものではなく、

私の個人的な夢だった。