ハラレドリームパーク完成その後

 1998年4月にハラレドリームパークが完成した後、私たちはその時に出来た日本国内の協力者のネットワークを消滅させず、アフリカ野球をゆったり気長に応援する会「ジンバブエ野球会」を立ち上げました。同会はその後、無理をせずに来たこともあり、現在まで継続されています。その間に、様々なことがありましたが、私が人生で最も感動したことの一つが以下の出来事でした。

それは、ジンバブエナショナルチームが関西学院に招待され、来日したことです。

 2003年10月に予定されていたオールアフリカゲーム(アジア大会のアフリカ版)の正式種目に野球が入っており、それはアテネオリンピックの予選を兼ねていました。その強化策の一環で、同年2月にジンバブエ野球会が主力選手3名を日本に招待しました。関西学院大学の宿毛キャンプから練習に合流、約一か月間を共に過ごさせてもらいました。滞在中、グランド横をたまたま通られた宗教総主事の前島先生に代表格のマンディ氏を紹介したところ、しばらく話し込んでおられました。先生は退職後の今もアメリカンフットボール部の顧問として精神的な支えを担っておられる方です。後日私は前島先生に「ジンバブエのナショナルチームを日本に招いて試合をするということは無理でしょうか」と現実味のないのを承知でお話したりしていました。すると先生は「ちょっと待っていて」とおっしゃっていました。10月に私はナイジェリアで開催されたオールアフリカゲームにコーチとして参加し、銅メダルは取りましたが、オリンピックには届きませんでした。メンバーと別れて帰国する時に、「これでこのメンバーとは一生会うことはないかも知れないな」と覚悟しました。

 帰国後しばらくして、関西学院が「関西学院創設者(ランバス先生)生誕150周年記念事業」で、ジンバブエナショナルチームを招待して下さるとの報告を頂き驚きました。何とランバス先生が生前宣教活動をアフリカでもしておられたということでこの事業のメインテーマが「アフリカ」で、こちらの学生と同年代の若者を招くことに意義があると前島先生が提案して下さり、その案を関西学院が受け入れて下さったとのことでした。きっとマンディ氏と立ち話をされた時の印象が良かったのだと私は思っています。

 その結果、2004年10月に私がジンバブエのユニフォームを着てベンチに入り、私が生まれ育った関学のチーム(高等部、大学、社会人を含めた全関学の計3ゲーム)と試合をするという奇跡が実現したのです。私がジンバブエに野球場を作ろうと考えた時には、考えもしなかった感動的な出来事でした。それに続いて創設130周年だった青山学院も東京に招いて下さり試合が出来ました。この時の青山学院大学は広島の小窪選手らが主力の春秋とも全国制覇をしたチームで、それは彼ら新チームの初戦でした。

 現在は、私が尼崎産業高校のコーチをしていた時の監督、岩崎広貴氏がシニア海外ボランティアとしてタンザニアに野球指導で赴かれ、ナショナルチームを編成し、監督になっておられます。

 たくさんの偶然の出会い、ほんの小さな働きかけや、誠実な対応。実現した一連の出来事は、それらが巧妙に組み合わさった実りだったと私は感じています。

2018年4月5日

 

 

伊藤益朗

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