海外に野球場をつくる

自分だけのアイデア

 

 1986年の夏、私は母校の野球部監督を退いて、自営の印章業に専念し始めた。生活が急に変わったせいか、1年後には不整脈が出て検査入院。異常はなかったがある先輩から「マスロ-、この頃精彩ないなあ」と言われ、自分でも「そうやなあ」と思ったりしていた。監督をしていた頃と比べて、自分を思い切り発揮する機会がないことを痛感した。

 そんな私に大きな転機が訪れた。それは94年のゴ-ルデンウイ-ク、インドのカルカッタにあるマザ-テレサの

施設へのボランテイアツア-だった。

 カルカッタのダムダム空港の湿ったぬるい空気の中で入国手続きを済ませて出ていくと、早速小さな赤ちゃんを抱いた15才くらいのお母さんがお金をくれと手を出してくる。私はそれを振り払って待っていたバスに乗り込んだ。

 このツア-の間に経験したことは、私の一生を揺り動かすのに十分な程濃密なものであった。マザ-テレサに祝福を受けたこと、シスタ-たちの素晴らしい笑顔と働きぶり、祈る姿。世界各地から集まってきたボランテイアと共に働いたことや、休憩時間のチャイの味。マザ-の施設にいる人たちとの及び腰の交流。路上でうずくまっている人がいる一方で、路上生活をしていても暖かくほほえましいと私には映った家族の姿などなど。

 私はそんな経験を消化し切れずに、たくさんの宿題を持ち帰った。インドでの経験は、牛の反すうのように、一度胃に呑み込んだものを口に戻して噛み直す作業を必要とした。私はひとりで考え続けた。

 

「ああ、何かやりたい。人生をただやり過すことだけはしないぞ」

 

 それは深い悩みであったが、今から思うと熱い思いでもあったようだ。そんなある日、

 

「野球場を造れんやろか」

 

そんな思いがふっと浮かんだ。続いて、

 

「お金ようけかかるやろなあ」

「あっ、待てよ、インドみたいな海外やったら可能性あるのと違うか」

「経済的にも野球界でも開発途上の国やったら、現地の人たちも野球場があれば助かるし、日本のお金も何倍にも使えるに違いない」

 

当時80円台の円高を活用したアイデアでもあった。

 

 その年の8月、私の大学時代のチ-ムメイトが45才で突然亡くなった。彼は30才を過ぎてから理学療法士の資格を取り、そのおおらかな人柄と研究熱心の賜物といえる実力で、多くの患者さんに信頼され、親しまれていた。彼の義兄はその告別式で、「やっと皆さんのお役に立てる力も付いてきて、これからという矢先の死に、弟もさぞ残念だったでしょう」 と挨拶された。その言葉は私を捉えて放さなかった。

 

「途中で死ぬ。途中で死ぬ」

 

 そうか、人間は「途中で死ぬ」のだな。そのことが私の心に刻み込まれた。そして、「それならやりたいことはやっておかなあかんなあ。それに、途中で死ぬんやったら、頓挫してもええんやなあ」と思った。失敗してもいいのだ。今迄何かをする時には、成功しないのならやり始めたらあかんと決めつけていた。失敗してもいいと分かると、それは大きな勇気となった。

 私独自の経験から心に浮かんだ「海外に野球場を造りたい」という思い。それはきっと、私にしか浮かんでこないものに違いない。私が採用しなかったら、このアイデアは永遠にこの世から抹殺されてしまうことになる。

そう考えると、自分がする以外にないと思った。出来るとか出来ないとかはどっちでもいい、先ず一歩踏み出そう。

 

 知り合いにその計画を伝えると、「それ面白いなあ」とか「夢のある話やねえ」

と言ってもらえて力を得た。そこからは二歩目を踏む位置が見え、また進むと三歩目を踏む位置が分かるというふうに、計画は次々と広がっていった。

 私が自分の中に浮かんだことをひとりに伝える。聞いた人がそれをそのまま次に伝えたり、そのことをヒントにして別のことを伝えて行く。これは大いに可能性のあることだ。結果としてどんなことが伝わり広がっていくかは分からないが、このように影響の連鎖が存在すると、その時実感した。これには、「風が吹く」という表現がピッタリだと思っていた。この計画に賛同していようがいまいがどちらでもいい、ジンバブエの風さえ吹けばいいという気持ちでひとりでも多くの人に伝えたいと思った。

 その頃の私は、内からエネルギ-が湧き出ていて、実際そのように動いた。計画は進み、「私たちのフィ-ルドオブドリ-ムス」実現を目指して、「ジンバブエFOD委員会」を作り、後に募金も呼び掛けた。