マウンドはみんなで作った

球場建設最後の作業

 

 98年4月13日、紆余曲折の末、ついに野球場が完成した。そして翌4月14日から小学生のアフリカ国際野球大会がこの南部アフリカ初の専用野球場で始まった。

 5月2日、私と家族、そしてこの計画を支え、夢を共有してきた友人たちの一行9人は、ジンバブエに向かった。野球場と出会い、そこでプレ-するためだ。

 その中には私の高校野球監督時代の選手2人と、私がコ-チをしている身体障害者野球チ-ム「兵庫神戸コスモス」のメンバ-3人もいた。32時間を費やして3日の午後ハラレに到着。ホテルにチェックインするや、直ちに村井さんがコ-チをしている女子ソフトボ-ルチ-ムの練習場に徒歩で向かい、飛び入りでゲ-ム形式の練習に参加。これで時差ボケも吹っ飛び、私たちの野球の虫が俄然活気づいた。

 翌日はいよいよ野球場へ。2年前、予定地が決まったときに一度来て以来である。車が野球場に近づくにつれ胸が高鳴り、その姿が眼前に現われると鳥肌が立った。

 

「これが私たちの夢の野球場か。」

 

 ライトの奥からホ-ムベ-ス方向に広がるフィールド。このときの野球場の姿は、永遠に忘れることはないだろう。

 バックネット、両軍ダッグアウト、内野の美しい芝、腰まで雑草の生えていた荒れ地を何とか整地した外野、全体を囲う金網フェンス、両翼100メ-トル、センタ-120メ-トル。

 それは私が望んでいた、質素ながらも温かい雰囲気の野球場そのものだった。私は村井さんへの感謝の気持でいっぱいになった。

 私たちはライトのフェンスにある扉からグランドに入っていった。小学生2チ-ムと高校生1チ-ム、それに先生方が1塁側ダッグアウトの前で半円形で待っている。進んでいくと、小学生の代表が前に出て、歓迎と感謝の言葉で私たちを迎えてくれた。

 そして、嬉しいプレゼントがあった。野球場建設の最後の作業として、マウンドづくりを私たちのために残しておいてくれたのだ。実際に自分たちの手でアフリカの大地に触れ、作業をすると、この野球場の血が流れ込んできて、私たちの体内を巡るようだった。

 そのあとゲ-ムをしたり、ノックをしたりして、昼食も食べずに結局この日はここで野球三昧の一日を過ごした。

 

 グランドには、ジンバブエの子供たちと協力隊員、元高校球児と体に障害をもつメンバ-、村井さんと私、それを見守る女性たち、私の息子と、実にバラエティーに富んだ顔触れがそろっていた。その満ち足りた情景は、私に天国を連想させた。

 

 この野球場の名前は「ハラレドリ-ムパ-ク」。これは、私たちの夢から発した野球場なので、「ドリ-ム」という言葉を入れてほしいという私の希望を受け入れてくれたものである。

 またサブネ-ムとして「ジンバブエジャパンフレンドシップベ-スボ-ルスタジアム」(ジンバブエ日本友好野球場)と名づけた。今後何十年たっても、この野球場は野球を愛する多くの日本人の協力でできたということが分かるようにしてほしいと願ってのものだ。この完成を現地の少年少女らプレ-ヤ-をはじめ連盟の人たちや青年海外協力隊員ら多くの人たちが喜んで下さっていることが分かったのは大変うれしいことであった。

 

 5月7日、ジンバブエで過ごす最後の午後。私たちは日が沈むまで野球場に残り、暗くなった野球場を心に刻み込んだ。そしてひとりひとり万感の思いを胸に、無言でライトフェンスの扉へ向かって歩いた。暗いのでそれぞれの表情は分からないが、メンバ-の中には鳥肌が立ち、涙が自然と流れたという者もいた。そして、私たちは野球場をあとにした。

 私たちは、ただ野球が好きだという糸で結ばれ、こんな壮大な経験をすることができたのである。村井さんとの縁は単にひとりが工作しても作り出せるようなものではなく、さまざまな力が働いて、まさに大きな力に導かれたものと思わざるを得ない。その過程で私は大きな学びを受け取り、ツア-のメンバ-をはじめ実に多くの人たちが新鮮な出会いを果たした。それぞれの人生の中で、それらは自分たちの想像をはるかに越える影響を与えていくに違いない。

 映画「フィ-ルドオブドリ-ムス」で、「やりたいことを何もせずに死んだ親父のようにはなりたくない」と、主人公が心の声にしたがい、大切な畑を潰して野球場をつくる。そこに今は亡き大リ-ガ-たちがあの世からやって来て野球を楽しむ。その中には、主人公の知らない、大リ-グを目指していた若い頃の父もいた。ラストシ-ンとなった野球場での父子のキャッチボ-ルは感動的であった。

 生きている間は和解できなかった父子が、キャッチボ-ルをすることでひとつにつながったのだ。キャッチボ-ルは世代を越え、空間を越え、野球を愛した者同士の心の交流そのものではないか。

 私たちは、今回の野球場建設を通して、アフリカのプレ-ヤ-たちとつながることができた。彼らと言葉では充分に交流できなくても、あの日同じグランドでひとつのボ-ルを追い、君の投げた球を私は打った。私の投げた球を君は捕った。その舞台となった「ハラレドリ-ムパ-ク」は、私たち共通の夢球場となった。

 彼らが大人になった時、そこは心のふるさととなるだろう。やがて彼らの子供たちもここで野球をし、父子のキャッチボ-ルが実現する。そのとき、父子共通の心のふるさととして、新たな輝きを発することだろう。

 100年後、そして200年後、今生きている我々がみんなこの世を去ってからも、野球があるかぎり、このフィ-ルドはずっと人々を惹きつける。私たちはあの世から、「今日もやっとるかな」と、フィールドを覗くだろう。そんな永遠の楽しみを今、手にしたのだ。

 

<おわり>