アルゼンチンと移住日本人をつなぐもの

元アルゼンチン日系社会海外ボランティア 今岡伸宇

 

南アメリカ大陸南部の大部分を占める楔形の国、アルゼンチン。「アルゼンチンと言えば、タンゴ、サッカー、ワイン、その他に何があるの?」と赴任前によく質問を受けたが、私自身も知識がなかった。

      「百聞、一見に如かず」まさにこの言葉通り、現地に赴き初めてアルゼンチンの持つ様々な顔を知ることができた。南北の全長3800km、日本の約7.5倍といわれる国家面積は、北から亜熱帯、温暖、乾燥、寒冷気候と大きく4つの地域に分けられる。それぞれの地域に世界に誇る絶景を持つ。北に世界3大瀑布のひとつイグアスの滝、東に国土面積全体の20%を占める広大なパンパ大草原、西に南米最高峰6969mアコンカグアをもつアンデス山脈、南には世界遺産でもあるペリト・モレノ氷河やウプサラ氷河といった大小47の氷河がある。それぞれの地域で住む人の顔、気質も違えば風習も違い、1国でありながら幾つもの国が交じり合っているかのような感じを受ける。現在、アルゼンチンと言えば、その自然の美しさを求めて世界中から旅行者が集まるが、1800年代、1900年代には、移住を目的とした人々が世界中から集まった。

1886年アルゼンチン・ブエノスアイレスに初の日本人移住者が現れ、以後、単身、家族、親族呼寄せ、花嫁移住などの形態により移住が続き、現在では約3万人の日本人移住者がアルゼンチンに住むようになった。

移住目的は様々であったが、戦前移住者は、お金も無く、言葉も通じなかったので、現地の雇用による工場や港での重労働、家の使用人などが主で、以後、カフェ経営、花屋、洗濯屋、タクシードライバーと移行し、戦後になると農業による大きな夢を抱いた家族移住が増えた。

私の赴任したミシオネス州は、首都ブエノスアイレスから北東へ1300kmに位置し、農業に適した地域ということから全てが農業目的の移住者であった。この州には、アルゼンチン最初で最後の日本人集団移住地が作られ、1950年代に北海道、広島、山口、九州などから約100家族、家族や親族で集団移住された。皆が大きな夢を抱き、移住してきたものの現実の生活は過酷なものであったという。入植時に政府から用意されていた小屋に数十家族が寝食共にし、各家族で土地の区分けをした後に、日々、直径何メートルもある原生林を切り倒し、その地を整地し、井戸を掘り、家を建て、それぞれの家族が目的を持って、松の植林、みかん、紅茶、たばこ、ジェルバ茶などを栽培していった。その間、風土病や毒蛇に噛まれ亡くなる方もおられ、原住民であるインディオ(ガラニー族)同様に、木の実、野生の動物、薬草なども食べ、生活を繰り返したという。今では、その不撓不屈の開拓魂ひとつで移住された日系一世の方々も殆ど亡くなり、親に連れられてきた当時、子供であった一世(60歳台から70歳台)の方々が残っている状況である。それぞれ人によって移住形態が違うため、移住に対しての考え方も当然違い、移住は成功であったと言う方もいれば、失敗であったという方もいる。

しかし、毎日、汗水たらし、いつ終わるか分からない仕事を家族や親族、仲間と共有できたことは財産であり、大木を倒すだけの日々も苦労と思わず、逆に楽しかったと話されている。今は、移住地から離れる家族が増え、残るのは僅かに7家族。今となっては、皆が疎遠になり寂しいと話す方も多い。現在、日系社会は世代交代し、家庭での日本語の使用も減り、日本文化継承が希薄になりつつある。隣国ブラジルやパラグアイでは、移住地に残る日系人が多く、また、日系人口も多いため、日本語の使用、文化継承が根強く残っているが、ここアルゼンチンは、日系の数も少なく移住地の数もひとつということで、やはり、アルゼンチンの文化に浸透してしまう様である。

現に今では、2世3世はアルゼンチン人と結婚し、アルゼンチンの生活スタイルを営んでいる。しかし、時世が変われどもアルゼンチン人の日系人に対する信頼は変わらない。それは、今まで日系1世の方々が勤勉、実直に事にあたられ、それぞれの分野に於いて、功績を残されたからである。そして、忘れてならないのが日本文化の象徴とも言える「武道」の普及である。1世の方々は、日本の精神を柔道、剣道、空手、合気道などの武道を通しアルゼンチン人に伝えていった。

「日本人とは?」言葉の通じない相手に、単純明快に伝える手段が武道であったといえる。日本人の持つ「武士道の精神」、これが今に繋がると1世の方々が口を揃えて言う。

日系移住の方々の「開拓魂」は、武士道の精神と深く結びつきがあったものと。思われる

今後も様々な分野でアルゼンチンと日本の友好関係は深まっていくのであろう。