ジンバブエを離れるにあたり

村井洋介

 

2005年4月4日(日)、移住を前にハラレドリームパークを訪れた。そこでは、ハラレのクラブチームの選手たちが野球シーズン開幕を来週に控え練習をしていた。私には見慣れた風景である。しかし、これからはこの当たり前の風景が、この球場が、このジンバブエの風の匂いが、少しばかり遠いものになってしまうのかという感慨が込み上げる。

 

1992年7月、このジンバブエの地に青年海外協力隊隊員として赴任してからこれまでの13年間、ジンバブエの野球はいつも私の生活の中にあった。

 

まだ、エマージェンシータクシーと呼ばれる乗合ワゴンタクシーが少なかった頃、マンディーと共に野球道具を担いで、黒人居住区の小学校を歩いて廻った事・・・トウモロコシ畑を横切る次の学校までの近道、さとうきび、炎天下、突然の集中豪雨、雷、マプティ、フリージット、なかなか来ないバス、そして我々を待っている子供達の笑顔・・・。

 

ある日、練習中にゴム製のベースを持って逃げる男がいた。私も選手も後を追いかける。捕まえてみたら、彼は靴の修理屋さん。材質、厚みとも靴底修理には申し分の無い四角いゴム板(=ベース)が地面に置いてあったんだもん・・・。

 

砂、草、石が混在するグラウンド、ノックをしていた私の横をカメレオンが歩いている。これまでテレビや写真でしか観たことのない?生き物が、私の数センチ横を歩いている・・・感動。

 

ハイデンシティー(黒人居住区)には「ブラック・ウイドゥ(黒い未亡人)」と呼ばれる小さな黒い鳥が、30~50cmの尾羽をひらひらと、まるでリボンが宙を舞うように飛び交う。何故か魅入られる・・・。

 

ブラワヨ市での出来事。野球協会が指定した黒人居住区の小学校へ出向き、野球を教えていた。いつも練習後には野球協会の人が迎えに来てくれる。ある日の事、練習がちょっと長引いた。更に運悪く学校の電話が不通。やっと見つけた公衆電話から迎えを頼むと、「こんな時間にそんな危険な所には迎えに行けない。」との返事。オイオイ・・・そんな危険な所で野球を教えている俺は何?

 

1994年、少年野球チーム日本遠征。 伊藤益朗氏との出会い変なオッサン・・・(失礼)しかし、伊藤さんの姿には、昔ながらの野球人の佇まいと、野球人の匂いがあった事を鮮明に憶えている。 それから10年。伊藤さんとは長いお付き合いをさせて頂きました。色々な所に行きましたね。やはり極めつけはナイジェリア(2003年オールアフリカゲームズ)でしょうか?

 

雨降って地ぬかるむ・・・よって、仕事進まず。ハラレドリームパーク建設開始。球場候補地の選定、建設許可、建設会社との交渉、資材調達・・・。

 

いきなり時間とお金が掛かったのは、グラウンドの整地だった。草が全面に茂り、一見グランドに見える球場建設予定地は、草の下の地面は平らと言うには程遠い状態。更に30mを超えるユーカリの大木6本が悠然と枝葉を広げていた。木を切り倒す、これは大した事ではなかった。しかし、30mを超す巨木は巨大な根を大地に深く張り巡らせていたのである。これを取り除く作業は、満足な建機の無いここでは、恐ろしく大変な作業となった。切り株の周り2m以上離れたところから何メーターも掘り下げていく・・・、しかも手作業で。

 

先ずは草刈り、そしてようやくグレーダーとブルドーザーを投入、グラウンド整地に取り掛かった。この年、前年までの旱魃が嘘のように連日の雨、雨、雨・・・。グラウンドは泥濘、大型建機は立ち往生、建機のレンタル料だけが膨らんでゆく・・・。

 

この頃からジンバブエの経済崩壊が進んで行く。建設資材はじめ、物価はうなぎ上り。発注時の見積りと、請求書の金額が倍以上も違うなんて事も日常茶飯事であった。「今日支払えばいくら、でも明日の支払いならいくら」なんて事も普通にあった。この事実、伊藤さんにどうやって説明しよう・・・。

 

長い長い辛抱と努力の甲斐あって、遂に球場が完成した。正直、その時の喜びは、嬉しさよりも安堵の気持が大きかったなぁ。もう一回やれと言われたら、できるかどうか・・・。

 

杮落しは「第2回ケンコートーナメント」。子供達の歓声が、まだ芝の生え揃わないドリームパークに木霊した。アフリカ大陸最高の球場「ハラレドリームパーク」はこうして幕を開けた。「光陰矢のごとし」あっという間に7年の歳月が流れ、ドリームパークは数々のドラマとヒーロー達を生んだ。 小学校の大会、クラブリーグ戦、高校の大会、インタープロビンシャル(州対抗戦)、ゾーン6南部アフリカ大会(オールアフリカゲームズ予選)、高校ソフトボール大会、ソフトボール国際大会、ソフトボールクラブリーグ戦、そして、「ドリーム・カップ」。多くのアフリカの若者達が、数年前まではただの空き地であったこの場所で、歓喜し、そして涙した・・・Field of Dreams・・・。

 

北陸銀行社会人野球チームを引退し、銀行業務に専念した1年数ヶ月の間、私の心は野球から離れるどころか、益々野球に対する思いが強くなっていった。悶々とした日々を過ごし、遂には青年海外協力隊を通じ、野球コーチとして現場に復帰する事になったのだが、その協力隊の研修に行く前に父親と飲みに行った時、父が行きつけの飲み屋のママに何気なく言った一言「馬鹿は死ぬまで治らない」が今更ながら心に響く・・・結局、ジンバブエ野球に13年。

 

90年代後半から始まった、経済の崩壊、情勢不安定、社会の混乱、そして何より医療問題は一向に改善を見せないどころか、益々悪くなっています。その為、これ以上は家族を抱えての滞在が困難と判断し、ジンバブエを離れる事にいたしました。今後は隣国の南アフリカに移ります。たとえこの地を離れても、引き続き私の出来る限りの事はしていきたいと考えています。とりあえず、まだ死んでいませんし・・・そして、「ハラレドリームパーク」にいつまでも人々の歓喜の声が続くように・・・。

 

この場をお借りして、「ジンバブエ野球会」の皆様、これまで温かく見守ってくださいました皆様に、改めて御礼申し上げます。そして、引き続きジンバブエ、並びにアフリカ野球の普及と発展にご協力頂けますよう、お願い申し上げます。