ベースボールクリニック in ガーナ

 村井洋介

 

 「暑い…」三度目のガーナであるにもかかわらず、毎度お馴染みの感想しか出てこない。爽やかなジンバブエの気候にすっかりと馴れてしまった私の身体には、大変厳しいガーナの気候である。

 

 2001年1月、堤尚彦氏に継ぐ2人目の青年海外協力隊の短期緊急派遣でガーナにて野球の普及と発展にあたる松本裕一氏のガーナにおける最後の仕事となる野球教室の手伝いで1年半ぶりにガーナに到着した。

 

 1月21日午後11時15分発、ガーナ航空670便は以前2度の経験を決して裏切ることなく3時間遅れの1月22日午前2時20分にハラレを出発、一路ガーナの首都アクラへと飛び立った。「まぁ、先週は9時間遅れて翌朝8時の出発だったから今回はまだマシだ」というガーナ航空の乗務員の言訳に怒りを堪え、空いている機内で早速横になり、待ち疲れた身体を休めるべく眠りに就いた矢先、「なんか飲むか?なんか食うか?」と揺り起こされ、「放っておいてくれ」と怒る私を、逆に何を怒っているんだという目で睨む乗務員。周りを見渡せば、ハラレから搭乗した乗客は一様に飲んで食っていたのであった。(参考までに、帰路は4時間遅れで午前2時30分にハラレに到着)

 

 今回のクリニックの対象は小中学校の先生と現在巡回指導をしている現地人野球コーチである。2日間が現地人コーチ、残り3日間が先生対象のコーチングクリニックにあてられた。

 

 一口にアフリカ人と言っても様々で、例えばジンバブエで言えばショナ族(農耕民族)とンデベレ族(狩猟民族)が違うように、部族によって言葉、体格、性格、顔つき、生活様式等が異なる。ご承知の通り、ガーナは西アフリカに位置しており、いわゆるアフリカンアメリカンの祖先であるニグロイド系で、身体も大きく攻撃的で、身体能力も極めて高くジンバブエなど南部アフリカのバンツー系黒人と比べると非常にパワフルな印象である。然るに、個人個人の能力はジンバブエの選手よりも高い選手が多いと感じられた。これはナイジェリアの選手に感じたものと同じような感覚である。

 

 しかしここでも現場の選手を取り巻く環境は悪い。協会などの組織のあり方や運営が選手主体のものではなく協会関係者の組織内の地位やその地位争いなどが表立って目立つ。協会の中である地位に就くことがステイタスで、一度地位に就いたらそのポジションを守る事に懸命で野球の計画を進めたりする事はあまり見られない。そして、何をするにも最後は「お金が無い」という事が彼等の逃げ道になっている。選手も勿論、野球をする金銭的余裕は少ない。仕事がある人間は仕事が第一で練習量は少ない。仕事の無い人間は練習は出来て技術的には仕事のある人間より上達はしているのだが、お金が無い。しかし、何かあるとなったとき(大会等)やはりお金のある人間の立場や意見のほうが強いのである。そしてここに大きな溝が生まれ、現場と接触の多い私などに「協会は何もしてくれない」「あいつは練習に来ないのに試合に出れる」といったような行き場を失った苦情が毎度の事ながら寄せられる事になる。

 

 確かにこれは非常に難しい問題ではある。ただ、本当に野球をしたいのだが、お金が無いというプレーヤーもいる反面、お金が無いと言いながらも野球以外の事にはお金を使っていると見受けられるプレーヤーもいる。かと言って、ここは野球をしている者同士ある者が無い者を助けるということもなかなか難しいのである。何故ならば、一度出した人間は常に出す人で、出してもらった人間は常に出してもらう人という関係が生まれてしまう。日本的な「前回は出してもらったので今回は私が」という感覚を持つ人が極端に少ない。「無いものは無い」のである。しかしながらそういった「無い」方の人間も己の意見や希望は頑固なまでに主張するから質が悪い。協会から選手までがそういった調子なので、一向に改善されないのである。

 

 話をクリニックに戻す。今回のクリニックにあたり松本氏並びにガーナ初代野球隊員の宍倉隊員はクリニックの場所の確保、指導書の作成、最終日の証明書発行のために試験問題まで用意した。クリニックは順調に進んでいた、進んでいると思っていた。が、最終日に思いがけない事が起こった。クリニックに来ていた先生達が私のところに来て、「コーチングクリニックに出席した証に何かくれ」と言うのである。彼等の意図するところは判っていたものの、「最終試験に合格すれば証明書が貰える」と返答すると、「そうではない。野球のコーチと言うからにはおまえが着ているユニフォームや帽子、グラブと靴が必要だ。もしそれが無いならば、人は私を野球のコーチと判断できないし、学校に帰って校長先生に本当にクリニックに行っていたかの証明が出来ない」と言うのである。「私もジンバブエではあなたの着ているようなトレーニングウエアでコーチをしている」と返すと「それはおまえがユニフォームを持っているから言える事で、我々とは違う。もしもそれらが貰えないならば我々は野球のコーチに興味をなくすだろう。我々が興味をなくすという事は、子供達にコーチをする人間がいないということだ。つまり、いくらおまえがジンバブエから来て一生懸命やっても無駄な事だ。」これには正直なところ怒りを感じた。この話が出たのは丁度、松本氏が腰の治療で病院に行っており、クリニックの開始に間に合わず、彼が居なかった間である。後で松本氏に話をしたところ、既に先生達には今回のクリニックでは証明書以外は何も無いと伝えてあり、了解されていたと聞き、外から来て何も知らないであろう私に「あわよくば」という想いでの事だったのであろう。それにしても少しがっかりしたと共に技術援助の難しさと援助慣れしている体制には考えさせられるものがあった。物を貰える事が「善」で、貰えない事は「善」では無いというような風潮がこんな所にまで染み付いているのかとの思いである。このクリニックの会場となった学校では子供達は既に野球を始めており、この日もクリニックの横で無邪気にボールを追う子供達の姿があった事、この環境(暑さ、マラリアをはじめ様々な感染症にかかる可能性、住居事情、食事)の中で、毎日毎日子供達や選手達のために本当に一生懸命野球の技術向上、普及と発展に取り組んでいる協力隊員の姿がより一層この出来事を嫌なものにさせた。宍倉隊員はまだまだ前途多難である。しかし、彼のため、子供達のためにも出来る限りの協力をしたい。子供達は野球を楽しみ、確実にレベルアップしているのである。

 

 現地人コーチはアクラ(首都)近郊では現在4人(先生ではない)が協力隊員の活動を補う形で野球協会承認のもと子供達への普及活動及び技術指導を行っている。その4人の内3人が前回の「オールアフリカ・ゲームズ」時のナショナルチームメンバーである。その3人はガーナチームの中心選手でもある。

 

2人がアクラ、2人が隣町のテマの出身で、それぞれ自分の出身地を巡回指導している。今回の現地人コーチのクリニックは、彼等の巡回指導に同行して、練習方法や技術に関する情報等に付いて新しく取り入れるべく、手伝いをする事が中心となった。やはりここでもジンバブエ同様に少ない練習時間と人数、限られた道具でしかも効率良く練習ができる事が課題であった。結果、やはり年齢に合わせて目的と楽しさを持つある程度画一された指導書を協会を中心に作成することが、重要であると思われた。幸いな事に、この現地人コーチ達は現在のところ日本からの援助で交通費等が賄われているが、          それもいつまでも続くものではないと考えると普及、発展、継続への早急かつ真剣な協会の対応が迫られている。

 

 今回のクリニックの最終日に、現地人コーチ達と夕食(現地人コーチの招待)を共にする機会に恵まれた。現地コーチといってもガーナナショナルチームの選手達である。野球に関する技術、練習方法、現状、苦情、将来と野球の話だけで4時間近くにも及んだ。暑くなった食事をしていた部屋から「涼しいから」と蚊の飛び交う屋外へ移動、白熱の議論が続いた。

 

 最後に私から提案を出した。それは、ジンバブエで毎年行われている「ドリームカップ」への参加招待である。ガーナ側はガーナ・ジンバブエの往復航空券、私のほうはジンバブエでの宿泊と食事を用意する事で合意、これにはガーナ選手達は大興奮で、早速実現に向けて動き出したようである。新しい形の「ドリームカップ」となる事を期待している。

 

私の帰国後まもなく、日本の堤氏より連絡があり、元広島カープの高橋慶彦氏がガーナチームのヘッドコーチに就任が予定されているとの連絡があった。益々楽しみである。

 

勿論、ジンバブエは負けるわけにはいかない。